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《増補再録》45年前の国会正門でのある激突死に思う

《増補再録》45年前の国会正門でのある激突死に思う


45年前の国会正門へのある激突死に及ばずながらも少しだけ個人的に思いを馳せてみま
した。

前略、これは「投書」でも「投稿」でもありません。
市井の1バイク乗りの「独り言」とか「呟き」とか「嘆き」とでも思ってください。
あるいはこの国のジャーナリストの皆さんへの期待や応援のようなのかも知れません。
現在「森友」や「加計」やら財務省の組織体質や自衛隊の日報問題、改憲問題等々で多
忙な日々を送られていると想像に難くない皆さんではあるかとは思いますが、「社会の
木鐸」として、二度と戦争への道をこの国が歩まぬように頑張って欲しいと一市民とし
て心から願っております。

今年もまた5月20日が巡ってきます。
45年前に国会議事堂正門の鉄柵にバイクごと突っ込んで亡くなられた沖縄の青年がいた
そうです。
彼の死の理由は遺書も残されていないので不明ではありますが、どうにも同じバイク乗
りとして引っかかることはあります。
忘れてはいけないことを今も彼は僕らに突きつけているような気がしてなりません。
彼が命を賭けてまで何か訴えたかった事柄があるような思いに今も駆られます。
気になって仕方がないので当時の新聞記事を図書館で探して僕なりに羅列してみただけ
にしか過ぎませんが、大メディアの皆さんの取材力なら、何か僕たちに提示してくれる
深い洞察や視線がある気がして恥ずかしながらペンを取りました。

国会前で倒れた彼のことを思い浮かべることは、僕の足りない頭ではこの先ずっと「彼
は何で死ななければいけなかったんだろうな」とは答は見いだせないとは思うものの、
それでも忘れ去ってしまうことよりは幾分マシな気がします。
皆さんの記事を読むと、彼の死にの背景には「沖縄」の抱える様々で大きな矛盾や辛さ
があるんだとは漠然と思います。
大森茂幸さんという方のバイク小説のタイトルを勝手に拝借すれば「『傘も差せない不
安定な乗り物の上から』でも沖縄の過去も今も照射できる」ってこともあるのかなもと
も個人的には思いました。
バイクに乗っているからこそ見える風景もあるかとは思います。
「たかがバイク、されどバイク」と人は言います。
45年目の5月20日前後の皆さんの新聞記事に期待して止みません。
とはいえ諸々の経済的事情で現在定期購読している新聞もなければ、遠隔地の新聞は手
にとることも出来ませんのはお許しください。
お忙しいところ失礼しました。乱筆乱文にてお許しください。

小池延幸(58歳) バイク乗り 東京都在住

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《増補再録》45年前の国会正門でのある激突死に思う


ある激突死。           
http://bunkasaikibun.hamazo.tv/e7556290.html
https://www.facebook.com/halumotoride/posts/779809065513374

先日、バイクで国会周辺を仕事で走っていた時のことでした。
それは、まるで水底に溜まった泥の中からプクリと小さな記憶の気泡が立ち上がり、ゆらゆらと静かに浮かび上がって水面でパチッと弾けたような感触で、ふと脳裏に甦ったのが「議事堂?正門?ナナハン?自殺?確か・・・随分と昔に・・・この場所は・・・誰かがバイクで門に突っ込んで亡くなったはずの場所だったんじゃなかったのか・・・」という断片的なキーワードにも似た微かで遥かなる記憶でした。
それにしても、「何時」「誰が」「どんな理由」でといった事件の細部の輪郭まではその時には瞬間的には思い出せませんでした。
それでも何故か忘れ去ってしまってはいけないような直感もありましたが、それが「政治の季節」が吹き荒れた70年安保闘争前後に起きたひとつの事件だったような曖昧な記憶に行き着かせるのが限界でした。
もしかすると10数年ぶりにバイク生活にリターンしたが故に導かれたような不思議なフラッシュバックだったのかもしれません。

とりあえず事件のアウトラインを知るためにと44年前の4つの全国紙の事故翌日の第1報の記事を縮刷版から抜き出してみました。

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【出典】朝日新聞 1973年(昭和48年)5月21日(月曜日)
【タイトル】事故?自殺?ナゾの暴走/国会正門に激突死/沖縄出身の“安全運転手”/時速70キロ、オートバイ直進
【リード】
二十日午後、国会正門の鉄格子のとびらに、オートバイに乗った沖縄出身の青年が猛スピードで激突、死んだ。現場検証の結果や、目撃者の話を総合しても、ぶつかるまでブレーキを踏んだ跡もない。「サーキット族ではないか」という警察の質問に対し、彼を知る人はだれもが「慎重な安全運転手」と答え、まして、自殺の心当たりなど全くないといい、その死はなぞに包まれている。
【本文】
 同日午後三時五十分ごろ、東京都千代田区永田町一丁目、国会正門左側の国会正門の鉄格子のとびらに、日比谷方面からのぼってきた黒ヘルメットをかぶった若い男の運転する黒塗りの大型オートバイが猛スピードで激突、転倒、男は頭の骨を折って即死した。
 麹町署の調べによると、男は運転免許証は持っていなかったが、ヘルメットの内側に「上原」のネームがあるのと、オートバイのナンバーから、神奈川県川崎市川崎区■■■■■、■■■アパート、運転手上原安隆さん(26)とわかった。
 上原さんは、沖縄県石川市東恩恵出身で、昨年十二月から自宅近くの運送業、■■■興業(■■■■■社長)に勤めていた。四十六年九月に大型二輪免許を取っていた。
 国会正門で、事故当時立番勤務をしていた警察官の話では、上原さんは同正門前のT字型交差点の信号が青になったとたん、猛烈なスピードでダッシュ、そのまま時速約七十キロで約五十五メートル離れた門に突込んだ、という。現場検証の結果、ブレーキを踏んだ跡はなく、ハンドルも左右に切った様子がなかった。
 国会正門は、高さ二・六メートル、幅二・九五メートルの鉄格子のとびら二枚が、内側に観音開きに開くようになっているが、上原さんは右側のとびらのほぼ中央に激突、とびらはこのショックでカンヌキがはずれ、内側に押しまげられた。
 調べによると、上原さんは四十六年ごろから新宿区のタクシー会社に一年ほど勤めていた。昨年暮れ同社をやめたあと一度帰郷、ことし一月末、■■■興業に勤めたという。
 タクシー会社にいた当時、青色のオートバイに乗っていたが、四十七年九月に、上野の中古車センターでホンダ型七五〇㏄のオートバイに買替えたという。
 麹町署は遺書もないので、最近「オトキチ」といわれるスピード狂の間で、障害物に向かって猛スピードで突進し、直前でハンドルを切って横に逃げるゲームがはやっているところから、上原さんが国会の正門相手に、同ゲームをしようとして失敗したとの見方を持ち、友人たちから事情を聞いたところ、上原さんの運転は慎重で、仲間でも抜群にうまく、タクシー会社にいた時には、安全運転の表彰を受けたこともあるという。事故の様子を聞いても友人たちは「信じられない」と口をそろえた。
 上原さんは明るい性格で、悩んでいた様子もなく、十九日夕も、仕事を終えた仲間三人が上原さんのアパートの部屋に集まり、恒例の“県人会”を開き、夕食を食べながら故郷の話をし、コザ市で修理工をする兄さんの話などをほがらかにしていた、という。二十日午後三時すぎ、「ちょっと会社へ行く」と同僚にいってアパートを出たが、いつまでも帰ってこないので、友人が不思議に思っているうち、警察から事故の知らせがあった。
 沖縄返還問題や、小選挙区制問題など、政治問題に特別強い関心を持っていたわけでもなかったという。■■■社長も「事故の原因は全くわからない」と首をかしげていた。

【写真キャプション】上原さんが乗っていたオートバイ=20日午後7時、国会前で/激突のあと/オートバイが激突、曲がった国会正門のとびら。洗い流したあとに油が浮いている=20日午後6時50分

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【出典】読売新聞 昭和48年5月21日(月曜日)
【タイトル】衆院正門体当たり/スピード狂か/単車男、80キロで即死
【本文】二十日午後三時五十分ごろ、東京都千代田区永田町一の七の国会議事堂衆議院正門に、国会下から猛スピードで走ってきたオートバイが激突した。オートバイは、鋼鉄製の門にはね返されて、前輪とハンドルがグシャグシャにつぶれ、運転していた川崎市川崎区■■■■の■■、■■■内、トラック運転手上原安隆さん(二六)は、頭と胸の骨を折って即死した。
 麹町署の調べによると、上原さんが乗っていたのは排気量が七百五十㏄の“サーキット族”といわれるオートバイマニアが愛用する大型のもので、国会下から時速八十キロで議事堂に向かって直進、ブレーキもかけずにそのまま衆院正門に激突した。
 事故当時、オートバイが激突した門の約四メートル左側には、国会警備の警視庁機動隊員が立っていたが、危うく難をのがれた。
 この事故で、高さ二・六メートル、幅二・九五メートルの観音開きになっている衆院正門は、直径三センチの鉄棒が、約十センチもひん曲がり、門を押さえていた直径系五センチの鉄製かんぬきも吹っ飛んだ。
 サーキット族の間では、交差点を曲がる場合、ブレーキをかけずにギアの調整で速度を落とし、体を極端に横に倒してカーブを切る“曲乗り”が流行しており、同署では上原さんもシフトダウンしようとしたが、スピードが出過ぎていたため、間に合わずに門に突っ込んだ疑いが強いと見ている。
 しかし、目撃していた機動隊員の話などから正門に激突するまでの上原さんは全く曲がろうとした形跡がなく、事故よりも自殺に近いとする見方もあり、勤務先の同僚や家族などから事情を聞くことにしている。
 上原さんが勤めていた川崎市川崎区■■■の■■■興業の■■■■■社長によると、上原さんは、沖縄県石川市出身。性格は明るく、音楽とオートバイが好きな青年で自殺の動機は、全くないといっている。
【写真キャプション】オートバイが激突、ぐにゃりと曲がった衆院正門の鉄サク

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【出典】日本経済新聞 1973年(昭和48年)5月21日(月曜日)
【タイトル】衆院正門に激突、死ぬ/オートバイ遊びで暴走
【本文】二十日午後三時五十分ごろ、東京都千代田区永田町一ノ七、国会衆議院正門に、警視庁方面から来た神奈川県川崎市川崎区大島三ノ三〇ノ一一、運転手、上原安隆さん(26)のオートバイが突っ込み、日曜のため閉まっていた鉄製のとびらに激突した。この事故でオートバイは大破し、上原さんは頭を強く打って即死した。
 麹町署の調べによると、上原さんは時速八十キロのスピードで突進しており、ブレーキをかけた跡は全くなかった。現場付近は休日になると、オートバイに乗った若い人が猛スピードで走り回ることがよくあるため、同署は車の好きな上原さんがオートバイで遊んでいるうちに判断を誤り事故をおこしたものとみている。

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【出典】毎日新聞 1973年(昭和48年)5月21日(月曜日)
【タイトル】ナゼか――国会に激突死
【本文】二十日午後三時五十分ごろ、東京都千代田区永田町、国会議事堂正面の衆院大門にオートバイ(750CC)が猛スピードで突っ込み運転していた若い男は頭の骨を折って即死した。男は免許証を携帯せず、麹町署で調べたところ、オートバイのナンバーから、川崎市川崎区大島■の■■の■■、■■■興業寮、運転手、上原安隆さん(26)とわかった。
 目撃した議会警備の警察官らの話では「鉄さくが十センチも曲がるほどで、ブレーキは全くかけずハンドルも切ろうとしなかった。わざと突っ込んだように思われる」といっている。しかし遺書めいたものもない。
 上原さんの本籍は沖縄県石川市■■■■■で、ことしの一月中ごろまで東京でタクシーの運転手をしていたという。
 上原さんの勤めている■■■興業には沖縄出身の同僚が数人いるが「性格も明るく、生活もまじめ、仲間とのつき合いもよかった。特に悩んでいた様子はなかった」といっている。事故を起こした“ナナハン”は昨年買ったものだが、スピード狂ではなかったという。

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亡くなった彼に対して不謹慎な感想かもしれませんが、記事を読んで思い浮かんだのが“消失点”とも訳されるタイトルの映画『バニシング・ポイント』(1971年)の壮絶なラストシーンと主人公の表情でした。
あの作品の主人公像の解釈は色々とあるでしょうが、僕は映画から「虚しさ」や「無力さ」を感じ取ったんだと思います。

僕の目にした新聞記事は日曜日午後の事故を報じた月曜日の朝刊のものですから、記者クラブ加盟社の記者たちが警察発表をそのまま鵜呑みにしてなぞったレベルの半ば官製記事みたいなものだと思います。多少の周辺取材を試みた様子はありますが、昨日の今日では締切までの時間不足は否めません。
この事件報道には当時、続報や暫くしてから背景等を掘り下げた検証記事等がもしかすると存在するのかもしれませんが、あまり丁寧に時間をかけてチェックをしたわけではないので発見には至っていません。恐らく事件直後の活版系週刊誌のバックナンバーを丁寧に漁れば何か関連記事が出てくるような期待はありますが、さすがに44年も前の過去の資料となるとアクセスするのもなかなか容易なことではありません。時間を割いて国会図書館にでも出向いて探してみるくらいしか良いアイデアは思い浮かびません。

それにしても、国会正門前の交差点で赤信号で停車中だった彼が、青信号に変わった瞬間にスロットルを開けたと思われる記述には事故というより自殺めいた行為のような印象を受けました。
もちろん遺書は残されていなかったとのことですから彼の胸中をこれだけの記事から推し量ることは出来ません。
「自殺」とすれば、当然にも「何故?」という疑問が横たわります。

後の報道によれば、彼は1970年12月20日未明にコザ市(現沖縄市)で発生した「コザ暴動(コザ反米騒動)」の逮捕者の1人であったそうです。この事件は、その年の夏に飲酒米兵により糸満市の主婦がはねられ即死した事件が軍事法廷で無罪判決となったことへの不満が鬱積していたことも引き金として背景にあったとされています。

Wikipediaによれば、≪コザ暴動(コザぼうどう、英語: Koza Riot)とは、1970年(昭和45年)12月20日未明、アメリカ施政権下の沖縄のコザ市(現在の沖縄県沖縄市)で発生したアメリカ軍車両および施設に対する焼き討ち事件である。直接の契機はアメリカ軍人が沖縄人をはねた交通事故であるが、その背景には米施政下での圧制、人権侵害に対する沖縄人の不満があった。コザ騒動(コザそうどう)、コザ事件(コザじけん)、コザ騒乱(コザそうらん)とも呼ば
れる。≫とありました。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B3%E3%82%B6%E6%9A%B4%E5%8B%95
また事件翌日の地元紙にはこんな記事もありました。

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▼≪出典≫琉球新報 車両炎上 コザ騒動 1970年12月21日朝刊
https://ryukyushimpo.jp/news/prentry-154798.html

 1970年12月20日未明、コザ市(現沖縄市)で米人車による人身事故をきっかけに、群集が米人車75台にガソリンをかけるなどして焼いたほか、嘉手納基地第2ゲートの軍パス発行事務所、基地内の米人小学校の3棟を焼いた。騒ぎは6時間続いた。同市島袋から胡屋交差点に至る1キロの沿道は炎上した車で埋まり、交通も一時封鎖された。この日のコザの夜空は車の炎で染まり、街は群集の怒りに包まれた。
 騒動の発端は、20日午前1時半ごろ、具志川市(現うるま市)に住む男性が京都ホテル前の24号線(現国道330号)を横断中、米人車にはねられ軽傷を負った。ちょうど糸満町(現糸満市)での女性れき殺後間もなかったことから、米憲兵とコザ署による事故調査を見ようと、中の町歓楽街の飲み客ら大勢の人が集まった。
 「女性の二の舞になるな」など罵声(ばせい)が飛ぶ中、憲兵が威嚇発砲した。これにより住民の米軍への不満が一気に爆発。1000人に膨れ上がっていた群集は、憲兵車や米人乗用車をひっくり返しガソリンをかけて放火した。その後も、沿道に駐車中の軍ナンバーなどの米人車を次々に焼き打ちした。
 一時は群集が4000人に達した。その一部は嘉手納基地第2ゲートに向かい、基地内の建物にも火を付けた。米軍は完全武装の憲兵約250人を出動させ、第2ゲートの警備に当たった。警官隊も約500人出動した。
 ランパート米高等弁務官は、ラジオを通してコザ市一帯に「コンディション・グリーン1」(外出禁止令)を発令、全将兵に待機を命じた。
 午前7時半ごろ、騒ぎは収まったが、この日夕方まで火はくすぶり続けた。

◆女性れき殺
 1970年9月18日、糸満町で女性(54)=同町糸満=が、飲酒米兵運転の時速60マイル(約97キロ)の猛スピードで走ってきた車にはねられ即死した。この米兵は軍事裁判で、理由も示されないまま「無罪」となった。

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当時の沖縄は「ベトナム戦争」の帰還兵と一時休暇の米兵で溢れていました。
戦争帰りの殺気だった米兵たちの犯す犯罪件数や交通事故は明らかになっているだけで年間2000件ペースとされ、泣き寝入りなど表面に出ない実際の犯罪件数は更に多かったものと容易に推測されます。
まして米軍施政下の沖縄では、加害者の米兵は基地にさえ逃げ込めばセーフみたいな有様で、被害者の沖縄の人々の蓄積した怒りや不満や不安が沸点寸前であったことは事実だったでしょう。

その「コザ暴動」の逮捕者の彼が国会正門に激突死したのは、それから3年後のことになります。
沖縄に生まれ、沖縄に育った彼が、沖縄の抱える現実や矛盾を多感な青年時代に直接、肌で感じていたであろうことは想像に難くありません。

国会正門激突事故のあった1973年5月20日(日)の各紙の1面トップ記事のタイトルを拾ってみると「国会正常化、さらに遠のく/自民『延長』を単独可決/野党、対決強化/怒りの共同声明/自民、単独審議辞せず」(読売新聞)、「対決色深め延長国会へ/自民『65日間』を単独採決 衆院本会議/野党なお審議拒否/空白打開、メドつかず」(朝日新聞)、「自民『65日延長』を単独議決/空白国会 長期化の様相/審議強行も辞さず/自民、収拾の糸口に悩む/野党、倒閣へ結束/共同声明『独裁の暴挙許さぬ』」(毎日新聞)と小選挙区制を巡って国会は内も外も大荒れの様相でした。
なんとなく最近の乱暴な国会運営と昔も今も大差ないような気がしました。
そんな国会をよそに東京の町は浅草の三社祭りの最終日で賑わってもいたようです。

上原さんのバイクは新聞記事の不鮮明で小さな写真からはホンダ車の「CB750FOUR」シリーズに僕には見受けられました。
1969年のデビュー時の価格が38万5000円だったそうですから、統計上では当時の大卒初任給平均が3万4100円ですから給料丸々1年分に近い価格だったと思われます。
彼は中古で購入されたと新聞にありましたが、たとえ“セコハン”であっても当時の「ナナハンブーム」の到来を考えれば、相当に値の張る買い物だったと思います。
中古であっても憧れのマシンですから、彼にとっても自慢の“一張羅”であったことには変わりはなかったでしょうし、そのナナハンの存在は周囲の羨望と尊敬の眼差しを集めたことでしょう。
バイクは些細な事故が時に生命の危険に及ぶこともある「危険な乗り物」でもありますから「死の匂い」を払拭するのは容易なことではありません。
オートバイ小説の古典ともいえるA.ピエール・ド・マンディアルグの『オートバイ』(1963年)でもラストはレベッカを襲う突然の事故ですし、片岡義男の『ボビーに首ったけ』(1980年)でもストーリーの突然の切断面は同じです。
しかし僕達バイク乗りは、間違っても「死ぬため」ではなく、「より良く生きる為」に、≪バイク乗り≫たらんとして愛機に跨り駆っているはずです。
その愛車をうっかり倒したりなんかして、ちょっとタンクやクランクケースやカウルに傷をつけただけでもかなり悲しい思いをするのも僕達の日常です。
それはきっと彼も同じだったと思います。
だからこそ、愛車ごと国会正門に激突死するなんて行為には、よほどの止むに止まれぬ強い思いや事情があったとしか思えないのです。

国会は「国権の最高機関」であり、唯一の立法機関ですから、それが置かれた国会議事堂は云わば“権力の象徴”の面もあります。
私たちが政治に無関心であっても、ここで何か法律が決まれば無関係ではいられないわけです。
その国会議事堂と正対した時に、彼の中に衝動的に込み上げる何らかの強い思いがあったのではないでしょうか。

太平洋戦争で、沖縄の人々は耐え難い苦しみを受けました。
“鉄の暴風”と形容された米軍の激しい砲爆撃に晒され、県民の4人に1人が亡くなったとされています。そもそもが敵の本土進攻を遅らせる為の時間稼ぎの“捨て石”とされたのが沖縄です。激しい艦砲射撃で吹き飛ばされた人もいます。砲弾に戦闘員と非戦闘員の区別はありません。機銃掃射の中を日本兵に豪を追い出された住民がいたり、沖縄語を使っていることでスパイ容疑を受けたり、住民が集団自決を強いられたような例もあったはずです。
味方のはずの自国兵が住民に死を強いるとしたらとんでもない話ですが、極限状況の下ではそれも現実なんだと私たちは教訓として知っておくべきでしょう。自国の軍隊の銃は外に向かうだけでなく、内に向く時もあるのです。
栄養失調で亡くなる幼子がいたり、子供たちまで戦場に駆り出され命を落としたりと地上戦は地獄図絵の様相を呈し、様々な悲劇を生んでいたはずです。
そして戦後も沖縄県民を覆ったのは米軍支配の長期化の問題でした。
戦後27年間も沖縄は米軍の占領下に置かれたのです。

その沖縄がアメリカの施政権の下から、日本に返還されたのは1945年の敗戦から随分と時を経た1972年5月15日のことです。
ただし、「沖縄返還」が実現したとはいえ、基地負担の偏在や日米地位協定の問題など今日に至るまで未だに解決していない問題が山積みされたままなのも周知の事実だと思います。
「沖縄問題」という言葉がそれを物語っています。
米軍の普天間飛行場の移転先となっている名護市辺野古沖の埋め立て承認を巡り、県と国が真っ向から対立し裁判闘争になっているのは異常な事態です。
私たちは経済成長や安全保障という名分の為に、特定の地域に“犠牲”という名の負担を構造的に押しつけてきたのかもしれません。

国会議事堂への沖縄出身の若者のバイクによる「激突死」が、返還の約1年後であったことが何かを象徴しているような気がしてなりません。
「本土復帰」したとはいえ≪何も変わっていない沖縄の状況≫への抗議の意味を孕んだ肉体的言語だった可能性はないのでしょうか。
それとも「本土復帰」という希望に満ちた言葉とは裏腹の現実に落胆したり、絶望したが故の何かがスロットルを全開にしたのでしょうか。
まるで僧侶の焼身自殺のような印象を、私は彼の激突死に感じてしまいました。そういえば、かつて首相官邸前でアメリカのベトナム『北爆』を支持した当時の首相への抗議の焼身自殺を遂げた方もいました。1967年のことです。

話を沖縄出身の青年の国会正門激突死に戻しますが、この事件を読み解く鍵となると思われる事故後39年時の地元紙のコラムを見つけましたので引用してみます。

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【出典】沖縄タイムス 2012年5月17日 コラム「大弦小弦」
▼復帰から40年。国権の最高機関とされる国会の前に立ち、この地で自らの命を絶った県出身の青年に思いをめぐらせた
▼青年は恩納村喜瀬武原生まれの上原安隆さん=享年26歳。復帰1年後の1973年5月、バイクで国会議事堂正門に正面衝突、亡くなった。米軍統治への怒りを爆発させた「コザ騒動」に加わり、起訴された一人だった
▼上原さんの死を追ったドキュメンタリー「激突死」を製作したジャーナリストの森口豁 さん(74)は「復帰と同時に本土では沖縄離れが始まった。米軍基地は変わらなかった。政府、日本への失望と怒りの訴えだったのではないか」という
▼いまだ基地が集中する実態は続く。日米政府は沖縄の反対を無視し、普天間飛行場の辺野古移設に固執している。14日未明からはPAC3展開訓練が強行され、節目の日を静かに迎えることさえできない
▼東京で沖縄問題が話題に上ると、「振興策をもらっているのだから辺野古移設を受け入れるべきだ」という批判を受けることがある。負担軽減を訴える反論にさえ、「文句があるなら独立すべきだ」とぶつけられたこともある
▼基地問題をめぐる本土側との溝は深い。県民の多くが差別を感じている。変わらない現実に、たった1人で抵抗した上原さん。その死を無駄にしてはいけない。(与那原良彦)

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不勉強な私は上記コラムの中で触れられている、この事故を5年後に追ったドキュメンタリー作品『激突死』(1978年)を未だに観ていません。
監督でジャーナリストの森口豁(かつ)さんは大学を中退して復帰前の沖縄に移り住み、琉球新報の記者や日本テレビの沖縄特派員として一貫して沖縄に目を向け作品を世に放ってこられた方だそうです。
都内でも2008年11月に山形国際ドキュメンタリー映画祭関連イベントで上映されたり、先日もアジア太平洋資料センターの連続講座で上映されたようですが、未だに機会を見逃したままです。

森口さんの注目すべき記事には2000年12月20日の琉球新報に寄せられた「たった一人のコザ暴動 国会正門に激突死した青年」という記事があるそうです。まだ読む機会には恵まれていませんが、1970年12月20日発生のコザ暴動から30年目の日に掲載されたという事情や、同じタイミングで沖縄タイムスにも「国会に激突、県出身なぞの死 あれは政府への抗議」という記事も存在したそうですから、やはり激突死と沖縄の抱える問題を事故の背景として無視はできそうもないのかもしれません。
掲載された年月日の詳細は残念ながら不明ですが、沖縄タイムス紙に彼の双子の兄の談話として「弟は、時の権力者や為政者というものに対する不満を常に持っていた。国会議事堂を前にして、日ごろの思いが突然込み上げてきたんだろう。突発的な、為政者への一つの抗議だったと思う」というのを発見しました。やはり語られていないことはありそうです。

日本のマスメディアは記者クラブ制度に依存しがちで、俗に「発表ジャーナリズム」なんて批判もあるように、中央省庁や警察から与えられる情報を鵜呑みにして批判や検証もせずに垂れ流す傾向や問題点があります。
彼の死についても、「同署は車の好きな上原さんがオートバイで遊んでいるうちに判断を誤り事故をおこしたものとみている」(日経新聞)を端的な例として見るようにもしかすると意識的に事件を矮小化しているような気さえしてきます。
「沖縄返還問題や、小選挙区制問題など、政治問題に特別強い関心を持っていたわけでもなかったという」(朝日新聞)ともありますが、これも彼が内面を周囲に吐露しなければわからないわけですから、これだけの証言で、これが事実なのかどうかは誰にもわかりません。
もしかしたら政治的背景のあるかもしれない覚悟の≪事件≫を、単なる交通≪事故≫として処理して片付けようとしたのかもしれません。

彼の死亡場所は国会正門でしたが、1960年6月15日には国会南門で東大文学部生の22歳の樺美智子さんが60年安保闘争の過程で亡くなっています。
彼女の場合は全学連(主流派)メンバーとして国会内に突入した際の機動隊との激しい衝突の最中での死でした。彼女の場合は遺稿集『人しれず微笑まん』や書簡集『友へ―樺美智子の手紙』といったものからでもなんとなく人柄や何を感じていたのかを辿ることが出来ます。
そして「6.15」というメモリアルな記憶として今も多くの人々の記憶の中に生き続けています。
自殺という意味では1965年に21歳で睡眠薬自殺された奥浩平さんの遺稿集『青春の墓標』や、1969年に20歳で飛び込み自殺を遂げた高野悦子さんの日記『二十歳の原点』シリーズなどで内面の苦悩や葛藤を知ることが出来ます。自動延長のおかげで“幻の80年安保”世代となった私のような世代の本棚にも埃を被ってはいますが並んでいるくらいですから、ある世代の方々には広く読まれた本だと思います。

ところが彼には遺書もなければ、日記や手紙などでも彼の内面を辿ることも出来ないようです。
「バイク乗りは寡黙である」と云われることがあります。
「言葉を持たないのがバイク乗り」と言い切ってしまうと語弊もありますが、案外と口数の少ないタイプも多いのかもしれません。
走りやカスタムで自己表現をする方も多いでしょうから、私のような無駄にお喋りな性格の奴はむしろ異端なのかもしれません。
バイクに乗る愉しみや、バイク旅で出会う自然の素晴らしさを言葉で表現しようとしても、己の表現力の貧しさ故に陳腐になってしまったり、それを誰かに伝えることの難しさを前にして、ついつい寡黙になりがちになるのかもしれません。
現に彼の勤務先の先輩の話として「まじめで静かな青年だった。趣味のバイクであちこち行くのを楽しみにしていた」という証言がネット上にありました。
彼と同じアパートに住んでいた友人の話としては「休みの日には、アパートで一人、高橋和己の『孤立無援の思想』などを読んだり、ギターをひく青年だった」というのもありました。
バイクで走りに出かけるのが好きで、音楽やギター演奏も趣味で、読書家であったとしたら、自分自身の趣味に照らし合わせても何ら変わらないごく普通の若者像しか浮かんできません。
実際、私もバイクが好きで、様々なジャンルの音楽に触れ、下手なギター(エレキベース)を掻き鳴らすのを趣味とし、本に親しむのも好きなタイプです。
ここで彼の友人の話として作家『高橋和己』さんと、評論集『孤立無援の思想』が登場しています。
難解そうな先入観や暗さがあって個人的には敬遠し続けてきた作家です。
大学時代、サークルの先輩に「君は高橋和己も読んだことがないのか?『散華』くらい読んでおけよ」と呆れられた記憶がありますが、やっぱり苦手意識が先行して本棚の肥やしになったままで今日に至っています。
その頃、高校生時代から好きで聴いていたシンガーソングライターの森田童子の1982年のアルバム『夜想曲』に収録されていた『孤立無援の唄』を耳にした時に歌詞の中に≪貸し本屋の軒下で雨宿り/君はむずかしい顔して/立ち読みしながら本を盗んだ/僕の自転車の後ろで/「孤立無援の思想」を読んだ≫、≪壁に向かって逆立ちして笑った/机の上の高橋和巳は/起こった顔して逆さに見える≫という一節を見つけ、高橋和己やその著書に興味を覚えたこともあったように記憶しています。
高橋和己は1960年代から70年代はじめにかけてかなり読まれた作家で、タイトルからして気を引く『孤立無援の思想』などはベストセラーという表現には抵抗がありますが、広く読まれていたこともありますので、これが事件を読み解く鍵にはなるとはまったく思いませんが、良い機会なので今夏は挑戦してみようかと考えています。

44年前の国会正門に激突死された彼の死に対する捉え方や受け止め方は千差万別だと思いますし、事件の真相にはわからないことも多いと思います。
世代も違いますし、会ったことも見かけたこともないけれど、それでも同じバイク乗りの1人として、彼の死に、心の中で静かに手を合わせ、頭を垂れることや、その理由の不在に漠たる想いを馳せることに異を唱えるような野暮な方はいないとは思います。
医療上の死亡定義での死が最初の死とすれば、その人のことを誰もが忘れ去ってしまうことで初めて本当の意味で死んでいくような気もします。
まして、彼が命を賭けてまで問いかけたかったような問題がそこに横たわっていたとしたら、彼の死を忘れ去ってしまうことはあまりにも悲しく酷い気さえして簡単ではありますが記させてもらいました。
この激突事故は、1970~1980年代からの旧いバイク乗りであれば、なんとなく記憶の片隅に「そ~いえば、昔、そんなことがあったよな」程度には残っているであろう出来事ではありますが、若い世代は知る由もないかとも思いましたし、いまどきの軽薄短小なバイク雑誌ではテーマが重くて扱いきれない気もしています。
それでも来年は彼の死から45年になりますから、1誌くらい掘り下げて扱って欲しい期待もありますけどね。
バイク乗りとして、記憶に留め継承することや、精神のリレーは必要な気がします。

とかく、中央集権国家から見たら、支配の及ばぬ辺境の土地は征服と収奪の対象でしかなかったと思います。それは、北海道であったり、東北、九州、沖縄であったとも想像できます。そんな地域に平和に暮らしていた人々は「まつろわぬ民」として、虐げられ続けてきた歴史があります。どうせバイク旅をするならば、そんな土地を訪れては何か学びとったり感じてみたい気がします。
何事にも気分的には迎合も屈服もしたくもないのが私の性格です。
何時か路上で!無事是名馬也!
                   2017年7月27日

【文責】小池延幸(58)/ZRX1200 DAEG
明治学院大MC『井戸端会議』初代総長

“旧くからのバイク乗り”の中には、あるいはその記憶の片隅に、1973年の緑の風薫る5月20日に国会議事堂正門に“ナナハン”でノーブレーキで激突死した黒いジェットヘルを被った26歳の沖縄出身の若者がいたことを憶えている方がいるのではないでしょうか。
僕も昔、その事件の回想記事を1980年代になってからバイク雑誌で目にした記憶があります。無論、事故ではなく覚悟の上での行為だったんだと思いました。
遺書は無かったということですが、あれはきっと「自殺」、それも抗議や怒りや絶望の意味を込めた「憤死」だったのではないでしょうか。

この事件のことを初めて知った方であれば≪なぜ?≫という疑問が深く横たわると思います。

先の戦争で沖縄の人々が苛酷な「地上戦」を強いられたことは皆さんもご存知だと思います。戦後も沖縄はアメリカの施政権下(占領下)に置かれ、日本に返還されたのは1972年5月15日のことでした。
ただし「沖縄返還」が実現したとはいえ、基地負担や日米地位協定の問題など未だに課題が山積されたままなのも周知の事実だとは思います。
私たちは経済成長や安全保障の為に、特定の地域にシステムとしての犠牲を押しつけてきたようです。

国会議事堂への沖縄出身の若者のバイクによる「激突死」が、返還の約1年後であったことが何かを象徴しているような気がしてなりません。
本土復帰したとはいえ≪何も変わっていない沖縄の状況≫への生身の言語だったのではないでしょうか。
私は不勉強にも未だ観る機会を逸していますが、この事件を追ったジャーナリストの森口豁(かつ)さんのドキュメンタリー作品『激突死』(1978年)があるそうです。

先日、ふとバイクで議事堂正門前を通過した時に、そんな事件のことを思い出
しました。私たちは例え「政治に無関心であっても、無関係ではいられない」
存在だということだけは肝に命じておきたい気がしました。


上記の拙文は、昨年(2017年)6月末と7月末に自身のブログやFacebook上にアップしたものです。

昨年2月末に久々にバイクを手に入れて再び走り出し、昨年6月6日のことと記憶していますが、たまたま仕事でバイクで国会議事堂周辺をウロウロして正門前も通過した時に「あれ?60年安保闘争の時は国会南門で樺美智子さんが亡くなられた事件があったとは知っているけど、70年安保の頃に国会正門にナナハンバイクでノーブレーキで突っ込んで誰か亡くなったような記憶があるけど、あれは何の事件だったっけ?」と突然のように思い出しました。

それまで車で国会前を通過しても、気に留めたり思い出すこともなかった事柄がバイクに自ら乗ることで五感が研ぎ澄まされてきたのかもしれません。
それで暫くしてから図書館で新聞の縮刷版をひっくり返して当時の新聞報道に触れて書いたブログでした。
その後も気になって可能な限りは続報を調べて、やっと何点か割と最近の新聞報道にも行き着くことが出来ました。

お断りしておきますが、これは読者投稿の類でもなく、私自身の忘備録や独り言のようなものだとご理解ください。
手に入れた過去の新聞記事のコピー等を「写経」のつもりで一文字一文字入力したものです。そういった意味では書き写す入力作業中に誤字脱字が多々あるかもしれませんがどうかご容赦ください。

私が、この事件のことを知ったのは、バイクに乗り始めた以降のことだと思います。当時の愛読紙のひとつでもあった月刊『Mr.Bike(ミスターバイク)』(モーターマガジン社刊/1976年創刊~2010年休刊)誌の1980年代前半の記事だったと思います。雑誌の現物はとうの昔に失くしてしまいましたが、かつてそんな出来事があったことだけは記憶していたようです。
そういった硬派な記事を扱うオートバイ専門誌も、仕方のないこととはいえ今ではまったくといって良いほどに消え去ってしまった気もしています。

人の死は病理学上の死亡と同時に、その人のことを憶えている人が誰1人としてこの世に存在しなくなったりした時が“第二の死”をもたらされるような気もしてなりません。
その意味では私たちが「事件」を忘れないことや、記憶を風化させないことも大切なことだと考えます。
恐らく、地元紙や全国紙の皆さんであれば、あの「事件」から45年目の今年の5月の声を聞く頃には再び紙面で取り上げてくれるであろう内容とは思いますが、現在定期刊行物としては30~40誌はありそうなオートバイ専門誌ではありますが、政治的問題も孕む厄介なこういった出来事を取り上げてくれそうな媒体は期待できそうもないので、せめてもの彼への供養の意味も込めて過去の新聞記事だけでも市井のバイク乗りの1人として拾ってみることにしました。

新聞記事を読んで私の脳裏に思い浮かんだ言葉といえば、「絶望」「失望」「失意」「落胆」「孤独」「怒り」「憤死」「覚悟」「抵抗」といった類のものばかりでした。
この場合の「絶望」には政治に対するものもあれば、それは同時に戦後沖縄の置かれた立場や現在に至る姿に対して無関心、無理解でしかない私のような者への批判の気持ちも込められていた気がしてなりません。彼の無言の行動が突きつけているのは私のような者へのものだとも思います。

彼の乗っていたバイクは、恐らく1969年8月に登場したホンダ・ドリームCB750FOURのKシリーズの1台であったと想像します。量産車世界初の4ストローク4気筒エンジンを搭載し、豪勢な前後ディスクブレーキ、4気筒を主張する4本マフラーのサウンド、その圧倒的なエンジンのパフォーマンスから垂涎の的のマシンでした。
「ナナハン」という言葉の代名詞やイメージリーダーのような存在でしたし、当時の世界中のオートバイ愛好家を唸らせ、それは今でもマニアに人気の名車として高価で取引されてもいます。

この事件をモチーフにした沖縄の劇団『O.Z.E』が上演した芝居「72’ライダー」のパンフレットをネットで拝見しましたが、そこにはイメージフォトとしてカワサキの750RS(通称Z2)が写っていました。CB750と人気を二分した70年代を駆け抜けた“ナナハン”の代表格ではありますが、これは事件直前の1973年2月にデビューしたばかりのマシンでしたから、やはり彼の愛車はCB750だった気がします。http://origin-oze.com/stage/175/
勿論、2012年と2013年に公演されたこの作品も私は見る機会には恵まれてもいませんが、脚本だけでも読んでみたい思いはあります。

まだ私が子供や少年だった頃、CB750fourに乗った主人公が大活躍する漫画に『ワイルド7』(望月三起也作/1969年)『750ライダー』(石井いさみ作/1975年)があり、子供心にこのマシンに恋焦がれたのも事実です。
免許の無い私には、それはスーパーマシンのように思えたものです。
バイクに乗り始めて初めて知ったことですが、こいつは乗り手に無限の世界の広がりと感動を教えてくれる素晴らしい代物でした。
どんなに落ち込んだ時でも、ひとたびエンジンをかければ嫌な事なんて走り去る後方に風と一緒に吹っ飛ばしてもくれました。
そんな愛すべき「相棒」を国会の鉄柵に無惨に散らすなんて行為は、想像を絶する「覚悟の自殺」や「命を賭けた抗議」としか同じバイク乗りの1人としてはどうしても思えないのです。その絶望の深さは私のようなちゃらんぽらんな人間には到底推し量ることも出来ないくらいに深かったんだろうとも思います。
遠い昔に彼の残した鋭い「爪跡」を微かな朧画(おぼろえ)であっても今も忘れられないのもバイク乗りの性なのかも知れません。
この事件のことをロートルのバイク乗りの間で話題にすると「待てよ、その事件のことは覚えているぞ。事故が自殺かで意見が分かれた奴だろ?確かノーブレーキで国会議事堂に突っ込んだ一件だろ?ノーブレーキってことを思えば、アレは自殺だったんだろうな」といった反応が返ってくるのもまた事実です。
彼の行為の裏に横たわっているであろう「沖縄」問題への理解の深さはともかくとして、まだまだバイク乗りの世界ではあの事件のことは完全には忘れされれてもいない気もします。

私の学生時代、シンガーソングライターの山崎ハコさんの曲に『本牧750cc(ナナハン)』という曲がありました。1983年のアルバム『ダージリン』に収録されていた曲だと思います。
米軍のフェンスに引き裂かれた悲恋を歌った曲だとも思いますが、この曲の歌詞の一節である「被害者はいつも若者/走っているのは/加害者のいない国」が今日は妙に心に突き刺さります。
私たちが無視や無関心や無理解を決め込むことの加害性を改めて気づかせてくれた気がします。

私が大学に入学した1979年の時、全共闘時代の名残りだったのかチャペルの壁にペンキで「4.28沖縄デー」みたいな数字と文字の大書が微かに読み取れたことを憶えています。
実は私は1959年生まれなのですが、誕生日が4月28日でありまして、妙に「4.28(ヨン・ニッ・パー)」という数字に「何これ?4月28日のこと?まるで俺の誕生日の数字じゃん。ところで沖縄デーって何よ?」と興味を持ったのかもしれません。
それが1952年のサンフランシスコ講和条約発効にまつわる数字だと知るのは随分と後のことでした(笑)。
その日にちが沖縄の人たちにとって「屈辱の日」とは知る由もなかったのほほんとしたノンポリ学生でした。沖縄の海よりも深く反省ですね。
もしかすると高校の日本史の教科書にも「サンフランシスコ講和条約」のことは記されていたかもしれませんが、授業では戦後史まで行き着いていなかったか、そもそも日本史を選択していなかった気もします。まぁ、まったく受験勉強もした記憶もない出来の悪い生徒だったので、教わっていても忘れていただけという可能性もあります。

「バイクジャーナリズム」や「2輪ジャーナリズム」を標榜されるバイク雑誌があれば奮起を願うばかりです。雑談、お・し・ま・い。

2018年4月23日

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≪出典≫沖縄タイムス 2006年11月30日付 朝刊
オキナワ憲法34歳 [原点の現場記者が歩く]理不尽さに募る怒りと失望
コザ騒動 米軍再編・基地建設/変わらぬ「頭越し」

「復帰と同時に本土では沖縄離れが始まった。政府への失望と怒りの訴えだったのではないか」。上原安隆さんのドキュメンタリーを撮ったジャーナリストの森口豁さんはそう話す。
1970年12月の本誌社説。沖縄返還交渉は日米両政府で秘密裏に行われ、地元は蚊帳の外。政府ベースの取り決めにならないかとの不安が書かれている。「地元の頭越し」に進む米軍再編、新基地建設。36年後の今も私たちは同じ問題を報道し続けている。

どんなに訴えても変わらない現状。安藤さんの死はそんな理不尽さへの体を張った抵抗だったのではないか。徒労を感じることは多いが、ここでくじけてはならないと思う。安藤さんの死わ無駄にしたくない。

「秩序ある暴動だった」。事件を知る人が異口同音にいうコザ騒動。米国資料によると、実際に騒動に加わったのは数百人、取り巻いた群衆は数千人から1万人に上る。焼き討ちされたのは米軍車両のみで、死者はなかった。
「米国が見たコザ暴動」(沖縄市役所発刊)の編集に携わった市文化観光課長の今有義さん(60)も現場に居た一人。派出所に石を投げようとした時、群衆の一人に「そこは関係ない」と静止された。今さんは「沖縄住民による自己統制された異議申し立てだった」と話す。
事件の発端とされるのは米兵が起こした交通事故。中の町社交街近くで、酒気帯び運転の米兵の車が道路横断中の沖縄男性をはねた。糸満市で主婦をひいて死亡させた米兵に無罪判決が出た直後だったため、居合わせた住民が米兵や事故処理にきた憲兵を取り囲み、「第二の糸満事件にするのか」とやじりはじめた。やがて群衆となり、騒ぎに発展した。
現場は嘉手納基地第二ゲートから、胡屋十字路、島袋三差路にかけての現県道20号、国道330号周辺。群衆は米軍車両に放火。一部はゲートから基地内へ突入し、小学校などに火をつけたが、憲兵隊の威嚇発砲で撤退した。騒ぎは二十日午前一時ごろから約六時間続いた。
被害に遭ったのは米軍車両八十二台、けが人は米兵、住民合わせて八十八人。琉球警察は百人以上を事情聴取、八十二人を事件送致。そのうち六十八人は「騒乱罪」での送致だったが、琉球高検は同罪の適用を見送った。最終的に車両への放火などで十人だけが起訴された。
当時の沖縄タイムスは「事件は、米軍の不当な統治に住民の不満が爆発したもの」なとど報じている。

今回の現場を歩いた記者 高崎園子(たかさき・そのこ) 1969年4月生まれ。那覇市出身。整理部。

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≪出典≫琉球新報 2010年6月25日付 朝刊 
〈あしゃぎ〉37年前から今を考える

1973年5月20日、神奈川県に住む沖縄出身の上原安隆さん(享年26)が、国会議事堂正門にバイクで突っ込み、死亡した。青年の死の背景を追ったドキュメンタリー番組「激突死」(1978年制作)をこのほど、南風原町の画廊で上映したジャーナリストの森口豁さん=写真=は「事故なのか、自殺なのか、本当の死因は分からない。ずっと気になっていたが、番組を作る立場になく、取材もできず、当時はあきらめていた」と振り返る。
78年、番組制作ディレクターになると、生前の上原さんを知る周辺から証言を取る形で死の理由に迫った。上映前、上原さんが事故当時、装着していたヘルメットを掲げ「上原さんの双子の兄が所有しており、自分の子供が弟の死を理解し、語り継ぐことができるまで、大切に保管しているものだ」と静かに語った。
「ディレクターになって1年もたたないうちに作った番組で、稚拙な点が多い。きちんと伝えられずに申し訳ない」と話したが、番組からは沖縄を憂う青年の苦悩が垣間見え、来場者は37年前の青年の死から、沖縄の現状に思いをはせているようだった。

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≪出典≫沖縄タイムス 2010年12月22日付 朝刊
[抵抗の炎・コザ騒動から40年](6)ヤマトへの不満爆発/国会議事堂激突死/黙殺される「ノー」

「被告人死亡により公訴棄却」。
1978年の那覇地方検察庁沖縄支部。ジャーナリストの森口豁さん(73)=当時、日本テレビディレクター、41歳=は、茶色く変色した上原安隆さん(享年26歳)の起訴状を見ていた。
千人規模の群衆が投石や放火などで加わったコザ騒動で、安隆さんは起訴された10人のうちの1人。
しかし、裁判は一度も開かれないまま、騒動3年後の73年、大型バイクで国会議事堂の鉄柵に正面衝突し、死亡した。
日本国家の象徴である国会議事堂に、ブレーキを踏まず時速80キロで突っ込んだ「事故」を森口さんは「意図された死。たった一人で日本を相手に暴動を起こしたのだろう」と思いをはせる。

安隆さんは、恩納村喜瀬武原に生まれ育った。恩納岳をのぞむ風光明媚な農村である一方、現在でも隣接するキャンプ・ハンセンから実弾演習の音が響く。
双子の兄で喜瀬武原に住む安房さん(63)は「弟は保守も革新も米軍も、権力というものに反発する人間だった」と振り返る。騒動の日、Aサインバーで働いていた上原兄弟は、率先して行動に加わった。ゲート通りで車を横転させて火を付け、「ウチナーンチュ共通の魂の叫びを行動にした」(安房さん)。
その結果の逮捕、起訴に安隆さんは「みんなやっていたこと。裁判なんて茶番劇には付き合わない」と語り、釈放後に1人上京。亡くなる直前の帰郷では、「車の整備工場を一緒に立ち上げよう」と兄に言い残していた。
「突発的であり、報復的でもある。何を考え国会に向かったか」。騒動を機に分断された弟のことを、安房さんは今も問い続ける。

騒動から40年がたった現在、森口さんは、ますます安隆さんの存在を強く感じている。「復帰しても変わらない基地問題。その沖縄から飛び出した本土は、復帰を機に沖縄への関心を急速になくしていた。その孤独の中で何を思ったか」
その立場は今の沖縄の状況にも重なる。「沖縄が、言葉や選挙で基地を『ノー』と言い続けても政府が頭越しに進めようとする。言葉が長年、無力化された時、爆発したのがコザ騒動であり、安隆の激突だった」。変わらない沖縄と日本の関係。森口さんは「声を聞かないわれわれヤマト側の問題だ」と語り、重いため息を吐いた。(中部支社・新崎哲史)=おわり
(写真説明)国会に激突した時に上原さんが着用したヘルメットを手に騒動40年を振り返る森口豁さん=北谷町、ちゃたんニライセンター

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≪出典≫琉球新報 2013年5月16日付 朝刊
〈主権この手に〉5/第3部 「真の復帰」とは/答えなき喪失の40年/彼の声は、今も聞こえない/弟が「激突死」上原安房さん

沖縄の「復帰」1年を迎えたばかりの1973年5月20日。東京都永田町では大型バイクに乗った青年が交差点を挟み、国会議事堂と対峙(たいじ)していた。赤信号が青に変わるや否や、バイクは猛スピードで直進し、約50メートル先の正門の鉄扉に激突、青年は頭の骨を折り、即死した。青年は県出身の上原安隆さん(26)。ブレーキ痕はなく、遺書もない謎の死だった。「理由は分からないが、場所は国会、何かを訴えたかったのではないか」。双子の兄の安房(やすふさ)さん(66)は、自ら「分身」と言う弟の死に喪失感を抱き、40年前に思いをはせる。そして、復帰とほぼ重なる死の意味を問い続けている。

二人は恩納村喜瀬武原で育った。喜瀬武原は山あいののどかな集落だが、米軍は50年前から周辺の土地を接収し、キャンプ・ハンセンを整備した。山には砲弾が撃ち込まれ、米兵が住宅地近くを行軍する。戦争さながらの日常を強いられていた。安房さんは高校卒業後にコザ市=現沖縄市=に移り、米軍人らが利用するAサインバーで働きだした。軍隊は嫌いだが生活のためだった。矛盾を抱えながら、別のバーに勤める安隆さんと共に家計を助けた。

日米の交渉で復帰が見えてきた70年12月、コザ市では民衆が米軍関係車両を次々と焼き打ちした。「コザ騒動」が起きた。騒動には多くのAサインバー従業員が加わった。闇夜を焦がすような怒りが渦巻く中に、上原さん兄弟もいた。「そのころ、米兵が車で女性をひき殺した事件が無罪になった。もう我慢の限界だった」
 騒動から数日後、安隆さんだけが車両に放火した疑いで逮捕された。釈放後の71年1月、安隆さんは友人を頼り上京した。同年11月には沖縄返還協定が国会で強行採決され、基地撤去はかなわぬまま沖縄は復帰した。

安隆さんの死後、安房さんは上京後の足取りをたどったが「彼の声は、今も聞こえない」。安房さんの元に残るのは、矛盾を抱えながらも米軍の不条理に抵抗した弟が、国会前で急逝した事実だけだ。昨年には安隆さんを題材にした演劇が上演され、その死から復帰の意味を問い直そうとする動きも広がりつつある。

「弟の死から40年にもなるが、復帰して本当に良かったのか。基地はほとんど残ったままじゃないか」。静寂を破る射撃音、オスプレイまでもが飛来する喜瀬武原の現実に、声を震わせる。「今、彼の死に意義を見いだすとすれば、平和をみんなの力で勝ち取るということだと思う。平和で幸福な社会を、彼も願っている」(小波津智也)

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≪出典≫朝日新聞 2013年5月16日付 朝刊
本土復帰の翌年、弟は国会で死んだ/双子の兄「沖縄の声いまだに届かず」

41年前、1972年5月15日に、沖縄は日本に復帰した。その1年後の73年5月、国会議事堂の正門にオートバイで突っ込んで死亡した青年がいた。沖縄出身の上原安隆さん(当時26)。復帰後も沖縄の現実を見てきた双子の兄は、無言の死の意味を問い続ける。

沖縄本島中部の沖縄市。兄の上原安房さん(66)は先月、弟の墓を訪れた。手元には、前頭部に長さ10センチほどの3本の傷があるヘルメット。安隆さんが事故時にかぶっていた遺品だ。
73年5月20日、日曜日の昼下がり。大型二輪に乗った安隆さんは、国会議事堂の鉄製の正門に衝突し、即死した。時速80キロ。ブレーキ痕はなく、所持品は現金305円と運転免許証、高速道路の半券だけだった。遺書はなかった。
2人は、本島中部の山あいにある恩納村喜瀬武原(きせんばる)で育った。18歳でともにコザ市(現・沖縄市)のバーテンダーに。米兵の暴力や無銭飲食は日常だった。
70年12月、コザ暴動に遭遇。米軍に不満を募らせていた市民数千人が車や米軍施設に火をつけた。「沖縄人は人間じゃないのか」。2人とも暴動に加わった。翌年春、安隆さんは放火罪で起訴された。半年後、一人で沖縄を離れ、川崎市の木造アパートに移った。
72年、沖縄復帰で本土はお祝いムードにわいた。しかし、運送会社の同僚だった神谷豊次さん(67)は、その頃の安隆さんの様子を「本土の人が沖縄のことを話すと『わかってない』『政治が悪い』と言って怒った」と振り返る。

故郷の喜瀬武原では、安隆さんが亡くなる1カ月前に、米海兵隊による砲撃演習が始まっていた。
弟のバイク事故の翌日、上京した安房さんは、国会議事堂の正門前に立った。本土復帰すれば平和になると言っていた政治家の顔が浮かんだ。「うそをつくな。沖縄をもてあそぶな」

弟の死から40年。「彼が訴えたかったことが、ぼくには分かる。日本政府への絶望です」。脳梗塞(こうそく)で昨年、言語障害を負った安房さんは声を絞り出した。
事故直後に訪れた弟の部屋。床に転がる本の山の中に、沖縄の歴史書に埋もれて1冊の本があった。タイトルに目を奪われた。
《孤立無援の思想》
著者は、全共闘世代に読まれた高橋和巳。15日、茶色く色あせたページをめくりながら言った。「いまだに沖縄の声は届かない。当時の孤立した弟の姿が、いまの沖縄の姿と重なって仕方ない」(伊藤和行)

【写真説明】上原安房さんの部屋には、弟の安隆さんの遺影と遺品のヘルメットが置かれている=沖縄県恩納村

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≪出典≫朝日新聞 2013年5月16日付 朝刊
【タイトル】1950 OKINAWA-1972沖縄 復帰翌年、青年が国会正門に激突死
【リード】沖縄の本土復帰から1年後の1973年5月、国会議事堂の正門にオートバイで突っ込んで死亡した青年がいた。沖縄出身の上原安隆さん(当時26)。死を覚悟しての疾走。訴えたかったことは何か。復帰後も変わらない沖縄の現実を見てきた双子の兄は、無言の死の意味を問い続ける。

【本文】
●兄「声が届かない。いまだに」
沖縄本島中部の沖縄市。兄の上原安房さん(66)は先月、恩納村の自宅から約20キロ離れた安隆さんの墓を訪れ、花をたむけた。手元には、前頭部に長さ10センチほどの3本の傷があるヘルメット。安隆さんが事故時にかぶっていた遺品だ。
73年5月20日、日曜日の昼下がり。大型二輪に乗った安隆さんは、国会議事堂の鉄製の正門に衝突し、即死した。時速80キロ。ブレーキ痕はない。所持品は現金305円と運転免許証、高速道路の半券だけだった。遺書はなかった。
2人は、本島中部の山あいにある恩納村喜瀬武原(きせんばる)で育った。18歳でともにコザ市(現・沖縄市)のバーテンダーに。米兵の暴力や無銭飲食は日常だった。

70年12月、コザ暴動に遭遇する。米軍による一方的な交通事故処理をきっかけに、米軍に不満を募らせていた市民数千人が車や米軍施設に火をつけた。「沖縄人は人間じゃないのか」。2人も暴動に加わった。
翌年春、安隆さんは放火罪で起訴される。半年後、一人で沖縄を離れた。流れ着いた先は、川崎市の8畳1間の木造アパート。運送会社に勤めた。

72年、沖縄復帰で本土はお祝いムードにわいた。しかし「基地なき島」という沖縄の願いは実現していない。
同じアパートにいた同僚の神谷豊次さん(67)は、安隆さんが荒れていく様子を見ていた。「本土の人が沖縄のことを話すと『わかってない』『政治が悪い』と言って怒った」。部屋に閉じこもることが増えた。

故郷の喜瀬武原では、安隆さんが亡くなる1カ月前に、米海兵隊による砲撃演習が初めてあった。
集落と街を結ぶ県道104号がゲート閉鎖され、向かいの山腹をめがけた砲弾が頭上を飛ぶ。腹にひびく爆音。日米政府は、復帰当日の5月15日に、県道104号では「米軍の活動」を優先するとの秘密合意をしていた。
弟のバイク事故の翌日、上京した安房さんは、国会議事堂の正門前に立った。本土復帰すれば平和になると言っていた政治家の顔が浮かぶ。「うそをつくな。沖縄をもてあそぶな」

2年後には弟の死の意味を知ろうと、川崎市に出て自動車修理の仕事に就いた。本土の人たちは、故郷で続く米軍の演習を知らなかった。「沖縄を見てみろ。本土の繁栄は沖縄の代償のうえにあるんだ」。
10カ月で地元に帰り、農業を始めた。

いま、安房さんには6人の孫がいる。弟の死から、ちょうど40年。「彼が訴えたかったことが、ぼくには分かる。日本政府への絶望です」。昨年、脳梗塞(こうそく)で言語障害を負った安房さんは声を絞り出した。

事故直後に訪れた弟の部屋の光景が忘れられない。床に転がる本の山。沖縄の歴史書に埋もれて1冊の本があった。タイトルに目を奪われた。
《孤立無援の思想》
著者は、全共闘世代に読まれた高橋和巳。いまも遺品として大切に持っている。15日、茶色く色あせたページをめくりながら言った。「いまだに沖縄の声は届かない。当時の孤立した弟の姿が、いまの沖縄の姿と重なって仕方ない」

●舞台化、心の叫び代弁/那覇の劇団
エンジンの爆裂音がホールに響き渡った。オートバイの青年が無言で敬礼し、舞台裏へ走り去る。
上原安隆さんの事故をモチーフにした演劇のラストシーン。作、演出の真栄平(まえひら)仁さん(44)は、「安隆さんの叫びを、実際の音で感じてもらいたかった」。那覇市の「劇団O.Z.E」が昨年に続いて今年3月にも公演し、計400人が見た。
真栄平さんが安隆さんの事故を知ったのは4年前。「絶対に何かを訴えたかったはず」。だが、事故は沖縄の人にも忘れ去られていると感じた。新聞や本を読み、兄の安房さんにも会った。
主人公は安隆さんをイメージした沖縄出身の青年。劇は、いまの沖縄の人たちの普通の暮らしと、40年前の青年の姿を対比させながら進む。
真栄平さんは、終盤のセリフに思いを込めた。本土に渡った青年が、沖縄の苦悩を知ろうとしない同僚にこう言う。
「悪いのは政治です。だが、もっと悪いのは無関心です。もっと沖縄を知ってください」(伊藤和行)

【写真説明】(右)1973年5月に上原安隆さんが突っ込んだ国会議事堂の正門。同じ日曜日、見学者らが写真撮影をしていた=東京都千代田区
(左)上原安房さんの部屋には、弟の安隆さんの遺影と遺品のヘルメットが置かれている=沖縄県恩納村 
上原安隆さんの事故をモチーフにした演劇をつくった真栄平さん=那覇市

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小池延幸(59歳) 自営業
東京都練馬区在住(静岡県浜松市生) 
【携帯】
【PCアドレス】
※趣味 オートバイと楽器(エレキベース)演奏
※2016年6月1日放映、日本テレビ『笑ってコラえて!』2時間スペシャルにてバンド「どうにかなるさ」メンバーとして夫婦でVTRとスタジオ生ライヴ出演。
※2010年『ヤイリギター』トラベルギターニックネーム募集で『TEKTEK』(テクテク)で最優秀受賞しヤイリギターTR-01の愛称命名者となる。
http://www.yairi.co.jp/cgi-bin/topics/viewor.cgi?cmd=i&d=201001&id=20100115180637

≪バイクリターン後の私のバイク専門誌読者投稿orバイク雑誌登場例≫

★『道楽』No.16(2017年2月16日発売号)P100 「みちコラム」寄稿
★『カワサキバイクマガジン』vol.127(2017年9月号) P113投稿再掲
https://www.bunkasha.co.jp/book/b308495.html
★『R★B』(レッドバロンマガジン)vol.24(2017年秋号)P22
「走れ!プロフェッショナル」特写記事掲載
http://www.redbaron.co.jp/topics/2017/vol24.html
★『単車倶楽部』Vol.4(2018年5月号 P94~P96 寄稿掲載
http://biz.webike.net/sd/23715015/
★『道楽』No.23(2018年4月16日発売最終号)特集『道楽キャンプ 愛すべき残党達よ!』P23下段にトピック登場
http://www.vibes-web.com/vibes_goods/doraku.html
★『?』誌 2018年6月号 P25寄稿掲載 キャンプツーリング特集
http://www.zokeisha.co.jp/tanshaclub/newpublication
☆『?』誌 2018年?月号に読者投稿掲載予定??

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※その他、オートバイ誌FB投稿サイト『RIDE百騎百景』等に昨年は約100本以上のweb投稿。以下はその放談の一例?(笑)

▼まつろわぬバイク乗り『RIDING-HIGH』の伝説(Vol.01)
https://www.facebook.com/halumotoride/posts/743835959110685
▼まつろわぬバイク乗り『RIDING-HIGH』の伝説(Vol.02)→結成報告/読売新聞
https://www.facebook.com/halumotoride/posts/744155279078753
▼まつろわぬバイク乗り『RIDING-HIGH』の伝説(Vol.03)→第1波提訴報道/朝日新聞
https://www.facebook.com/halumotoride/posts/744797609014520
▼まつろわぬバイク乗り『RIDING-HIGH』の伝説(Vol.04)→第1波提訴報道/毎日新聞
https://www.facebook.com/halumotoride/posts/745295015631446
▼まつろわぬバイク乗り『RIDING-HIGH』の伝説(Vol.05)→日本初のバイクデモ/東京タイムズ
https://www.facebook.com/halumotoride/posts/745692858924995
▼まつろわぬバイク乗り『RIDING-HIGH』の伝説(Vol.06)→日本初のバイクデモ/毎日新聞コラム
https://www.facebook.com/halumotoride/posts/746057775555170
▼まつろわぬバイク乗り『RIDING-HIGH』の伝説(Vol.07)→東名高速集団走行会
https://www.facebook.com/halumotoride/posts/746966162130998
▼まつろわぬバイク乗り『RIDING-HIGH』の伝説(Vol.08)→「オートバイ」誌インタビュー
https://www.facebook.com/halumotoride/posts/747943218699959
▼まつろわぬバイク乗り『RIDING-HIGH』の伝説(Vol.09)→バイクジャンボリー1984
https://www.facebook.com/halumotoride/posts/748209398673341
▼まつろわぬバイク乗り『RIDING-HIGH』の伝説(Vol.10)→朝日ジャーナル
https://www.facebook.com/halumotoride/posts/748817658612515
▼まつろわぬバイク乗り『RIDING-HIGH』の伝説(Vol.11)→提訴前報道/サンケイ新聞
https://www.facebook.com/halumotoride/posts/749295718564709
▼まつろわぬバイク乗り『RIDING-HIGH』の伝説(Vol.12)→週刊プレイボーイ
https://www.facebook.com/halumotoride/posts/749576798536601
▼まつろわぬバイク乗り『RIDING-HIGH』の伝説(Vol.13)→東京タイムズ
https://www.facebook.com/halumotoride/posts/750662825094665
▼まつろわぬバイク乗り『RIDING-HIGH』の伝説(Vol.14)→東京新聞/提訴直前報道
https://www.facebook.com/halumotoride/posts/751205345040413
▼まつろわぬバイク乗り『RIDING-HIGH』の伝説(Vol.15)→中日スポーツ/提訴前報道
https://www.facebook.com/halumotoride/posts/753150251512589
▼まつろわぬバイク乗り『RIDING-HIGH』の伝説(Vol.16)→週刊読売(部分)
https://www.facebook.com/halumotoride/posts/753787134782234
▼まつろわぬバイク乗り『RIDING-HIGH』の伝説(Vol.17)→内外タイムス
https://www.facebook.com/halumotoride/posts/754273438066937
▼まつろわぬバイク乗り『RIDING-HIGH』の伝説(Vol.18)→週刊読売(全文)
https://www.facebook.com/halumotoride/posts/754581538036127
▼まつろわぬバイク乗り『RIDING-HIGH』の伝説(Vol.19)→東京中日スポーツ
https://www.facebook.com/koike.nobuyuki.92/posts/1362394157171111?pnref=story
▼まつろわぬバイク乗り『RIDING-HIGH』の伝説(Vol.20)
https://www.facebook.com/halumotoride/posts/755541261273488
▼まつろわぬバイク乗り『RIDING-HIGH』の伝説(Vol.21)→提訴報道
https://www.facebook.com/halumotoride/posts/755591661268448
▼まつろわぬバイク乗り『RIDING-HIGH』の伝説(Vol.22)→二輪車新聞
https://www.facebook.com/halumotoride/posts/755675224593425
▼まつろわぬバイク乗り『RIDING-HIGH』の伝説(Vol.23)→社会新報
https://www.facebook.com/halumotoride/posts/756673097826971
▼まつろわぬバイク乗り『RIDING-HIGH』の伝説(Vol.24)→日本初のバイクデモ/サンケイ新聞コラム
https://www.facebook.com/halumotoride/posts/756756567818624
▼まつろわぬバイク乗り『RIDING-HIGH』の伝説(Vol.25)→山陽新聞
https://www.facebook.com/halumotoride/posts/757530521074562
▼まつろわぬバイク乗り『RIDING-HIGH』の伝説(Vol.26) →出典不明新聞記事
https://www.facebook.com/halumotoride/posts/758198924341055
▼まつろわぬバイク乗り『RIDING-HIGH』の伝説(Vol.27) →報知新聞/提訴報道
https://www.facebook.com/halumotoride/posts/758316187662662
▼まつろわぬバイク乗り『RIDING-HIGH』の伝説(Vol.28) →日本経済新聞/第2波提訴報道
https://www.facebook.com/halumotoride/posts/758967090930905
▼まつろわぬバイク乗り『RIDING-HIGH』の伝説(Vol.29) →東京タイムズ/提訴報道
https://www.facebook.com/halumotoride/posts/759042264256721
▼まつろわぬバイク乗り『RIDING-HIGH』の伝説(Vol.30) →原告団への招待状
https://www.facebook.com/halumotoride/posts/759273364233611
▼まつろわぬバイク乗り『RIDING-HIGH』の伝説(Vol.31) →静岡新聞
https://www.facebook.com/halumotoride/posts/759469260880688
▼まつろわぬバイク乗り『RIDING-HIGH』の伝説(Vol.32)→読売新聞/提訴前日報道
https://www.facebook.com/halumotoride/posts/759740157520265
▼まつろわぬバイク乗り『RIDING-HIGH』の伝説(Vol.33)→読売新聞/提訴報道
https://www.facebook.com/halumotoride/posts/760129827481298
▼まつろわぬバイク乗り『RIDING-HIGH』の伝説(Vol.34)→サンケイ新聞/第2波提訴
https://www.facebook.com/halumotoride/posts/764274950400119
▼まつろわぬバイク乗り『RIDING-HIGH』の伝説(Vol.35)→日本経済新聞/提訴報道
https://www.facebook.com/halumotoride/posts/764737920353822
▼まつろわぬバイク乗り『RIDING-HIGH』の伝説(Vol.36)→朝日新聞/提訴当日
https://www.facebook.com/halumotoride/posts/764740780353536
▼まつろわぬバイク乗り『RIDING-HIGH』の伝説(Vol.37)→日経新聞?/初公判
https://www.facebook.com/halumotoride/posts/765924140235200
▼まつろわぬバイク乗り『RIDING-HIGH』の伝説(Vol.38)→ベストバイク/集団走行
https://www.facebook.com/photo.php?fbid=1383546518389208&set=a.1019244211486109.1073741827.100002016187118&type=3&theater
▼まつろわぬバイク乗り『RIDING-HIGH』の伝説(Vol.39)→週プレ/提訴報道
https://www.facebook.com/halumotoride/posts/766607256833555
▼まつろわぬバイク乗り『RIDING-HIGH』の伝説(Vol.40)→東名集団走行デモ
https://www.facebook.com/halumotoride/posts/768325729995041
▼まつろわぬバイク乗り『RIDING-HIGH』の伝説(Vol.41)→BB誌/BJ84 開催報告記
https://www.facebook.com/halumotoride/posts/770156079812006
▼まつろわぬバイク乗り『RIDING-HIGH』の伝説(Vol.42)→FRIDAY
https://www.facebook.com/photo.php?fbid=1410441142366412&set=a.1019244211486109.1073741827.100002016187118&type=3&theater
▼まつろわぬバイク乗り『RIDING-HIGH』の伝説(Vol.43)
https://www.facebook.com/photo.php?fbid=1431149653628894&set=a.1019244211486109.1073741827.100002016187118&type=3&theater

▽まつろわぬバイク乗り『RIDING-HIGH』の伝説(番外編その1)→会員証ステッカー
https://www.facebook.com/halumotoride/posts/749295648564716
▽まつろわぬバイク乗り『RIDING-HIGH』の伝説(番外編その2)→茂木モータース・2輪を考える会
https://www.facebook.com/halumotoride/posts/750413231786291
▽まつろわぬバイク乗り『RIDING-HIGH』の伝説(番外編その3)→バイクジャンボリー
https://www.facebook.com/halumotoride/posts/750663231761291
▽まつろわぬバイク乗り『RIDING-HIGH』の伝説(番外編その4)→BJ84
https://www.facebook.com/halumotoride/posts/751005391727075
▽まつろわぬバイク乗り『RIDING-HIGH』の伝説(番外編その5)→BJ85ステッカー
https://www.facebook.com/halumotoride/posts/751006341726980
▽まつろわぬバイク乗り『RIDING-HIGH』の伝説(番外編その6)→バイクデモビラ
https://www.facebook.com/halumotoride/posts/751538301673784
▽まつろわぬバイク乗り『RIDING-HIGH』の伝説(番外編その7)→小説家高千穂遥さん
https://www.facebook.com/halumotoride/posts/751908108303470
▽まつろわぬバイク乗り『RIDING-HIGH』の伝説(番外編その8)→大津弁護士
https://www.facebook.com/halumotoride/posts/752324338261847
▽まつろわぬバイク乗り『RIDING-HIGH』の伝説(番外編その9)→BJ84~吉本論文
https://www.facebook.com/halumotoride/posts/752777328216548
▽まつろわぬバイク乗り『RIDING-HIGH』の伝説(番外編その10)
https://www.facebook.com/halumotoride/posts/753275184833429
▽まつろわぬバイク乗り『RIDING-HIGH』の伝説(番外編その11)→トレーナー(背中)
https://www.facebook.com/halumotoride/posts/754719868022294
▽まつろわぬバイク乗り『RIDING-HIGH』の伝説(番外編その12)
https://www.facebook.com/halumotoride/posts/755462951281319
▽まつろわぬバイク乗り『RIDING-HIGH』の伝説(番外編その13)→伊国の料金区分
https://www.facebook.com/halumotoride/posts/756086761218938
▽まつろわぬバイク乗り『RIDING-HIGH』の伝説(番外編その14)→明治学院大
https://www.facebook.com/halumotoride/posts/757191174441830
▽まつろわぬバイク乗り『RIDING-HIGH』の伝説(番外編その15)→85鈴鹿宣言予告
https://www.facebook.com/halumotoride/posts/757191981108416
▽まつろわぬバイク乗り『RIDING-HIGH』の伝説(番外編その16)→土本亜理子さん
https://www.facebook.com/halumotoride/posts/758534160974198
▽まつろわぬバイク乗り『RIDING-HIGH』の伝説(番外編その17)→BJ1985パンフ
https://www.facebook.com/halumotoride/posts/758576930969921
▽まつろわぬバイク乗り『RIDING-HIGH』の伝説(番外編その18)→RH名前の由来
https://www.facebook.com/halumotoride/posts/758967250930889
▽まつろわぬバイク乗り『RIDING-HIGH』の伝説(番外編その19)→訴訟委任状
https://www.facebook.com/halumotoride/posts/759518434209104
▽まつろわぬバイク乗り『RIDING-HIGH』の伝説(番外編その20)→原告団ステッカー
https://www.facebook.com/halumotoride/posts/759518604209087
▽まつろわぬバイク乗り『RIDING-HIGH』の伝説(番外編その21)→事務局ヘルメット
https://www.facebook.com/halumotoride/posts/759613324199615
▽まつろわぬバイク乗り『RIDING-HIGH』の伝説(番外編その22)→原告募集明学大ビラ
https://www.facebook.com/halumotoride/posts/760130834147864
▽まつろわぬバイク乗り『RIDING-HIGH』の伝説(番外編その23)→YM誌
https://www.facebook.com/halumotoride/posts/760183834142564?notif_t=story_reshare¬if_id=1495120918702808
▽まつろわぬバイク乗り『RIDING-HIGH』の伝説(番外編その24)→R/R NEWS BOX
https://www.facebook.com/halumotoride/posts/760379087456372
▽まつろわぬバイク乗り『RIDING-HIGH』の伝説(番外編その25)→MC井戸端会議
https://www.facebook.com/halumotoride/posts/760433490784265
▽まつろわぬバイク乗り『RIDING-HIGH』の伝説(番外編その26)
https://www.facebook.com/halumotoride/posts/760805370747077
▽まつろわぬバイク乗り『RIDING-HIGH』の伝説(番外編その27)→『学二連』の建設省への公開質問状(1)
https://www.facebook.com/halumotoride/posts/761301447364136
▽まつろわぬバイク乗り『RIDING-HIGH』の伝説(番外編その28)→『学二連』の道路公団への公開質問状(2)
https://www.facebook.com/halumotoride/posts/761915447302736
▽まつろわぬバイク乗り『RIDING-HIGH』の伝説(番外編その29)→東京タイムズ㊤
https://www.facebook.com/halumotoride/posts/764917797002501
▽まつろわぬバイク乗り『RIDING-HIGH』の伝説(番外編その30)→東京タイムズ㊦
https://www.facebook.com/halumotoride/posts/765207123640235
▽まつろわぬバイク乗り『RIDING-HIGH』の伝説(番外編その31)→売買情報誌ぱどっく
https://www.facebook.com/halumotoride/posts/765808883580059
▽まつろわぬバイク乗り『RIDING-HIGH』の伝説(番外編その32)→出典不明/結成報告
https://www.facebook.com/photo.php?fbid=1393880630689130&set=p.1393880630689130&type=3&theater


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    《増補再録》45年前の国会正門でのある激突死に思う
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