たまりば

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僕にとっては旅を誘う書でもありました。


僕にとっては旅を誘う書でもありました。



2015年に哲学者の鶴見俊輔さんがお亡くなりになった際も戦後の大きな知の巨人の喪失を感じましたが、先日の哲学者の梅原猛さんの訃報にも同様の喪失感を禁じ得ません。
幾つかの新聞の社説でも梅原さんの死を悼んで記事を掲げていました。
それにしても、『日本の深層』は今、読んでも面白いよね。
ちょっと久しぶりに読み返してみようかな。
この全集は表紙は僕の手垢で汚れていて、20年くらい前だと思うけど、かなり興味深く読んだ記憶があります。
解説は松岡正剛先生の下記のサイトにお任せしましょう。

▼松岡正剛の千夜千冊 1418夜『日本の深層』梅原猛著https://1000ya.isis.ne.jp/1418.html


▼京都新聞 社説 2019年1月15日
社説:梅原猛さん死去 「知の探求」受け継ごう
https://www.kyoto-np.co.jp/politics/article/20190115000047

 梅原猛さんが亡くなった。
 戦後日本を代表する哲学者で、あくなき知的好奇心に満ちた「知の探求者」だった。通説に果敢に切り込み、独創的な学問を打ち立てた功績は計り知れない。
 京都の文化土壌を考えるとき、真っ先に顔が浮かぶのが梅原さんではないか。
 仙台市出身の梅原さんが京都に来たのは、西田幾多郎や田辺元ら京都学派の哲学者へのあこがれからだった。だが、西田哲学の正統な継承者にはならなかった。
 京都学派の流れでも、むしろ異端の人だったという。異端を包み込む京都の文化土壌の中で、京都学界を代表する存在となった。
 時に批判、黙殺されても、絶対的なものへの反骨、既成概念への疑いが学問を支えていた。若い頃に直面した戦争がその根源にあったことは間違いない。
 自分は生き延びたという後ろめたさがあり、死に対する不安を人間の本質と捉えたハイデッガーの哲学に引かれたという。
 「自国にしか通じない日本主義では駄目だ」とも語っている。そんな思いは国際日本文化研究センターの創設にもつながった。
 西洋に代表される近代文明の行き詰まりを打開し、人類を救済する哲学を日本から打ち立てたいと情熱を燃やし続けた。
 社会が複雑化し、多くの学問や研究が狭い専門領域に「たこつぼ化」していると言われる。そんな中で、古代史や文学、宗教などを大胆に横断する梅原さんの哲学は独特の輝きを放った。
 学問が本来持つ面白さを気づかせてくれたからではないか。
 書斎の人にとどまらない、実践的行動の人でもあった。社会問題に積極的に発言した姿も印象深い。「九条の会」の呼びかけ人や、東日本大震災復興構想会議の特別顧問も引き受けた。
 常に日本の未来を案じていればこそだろう。安保法制を問い、詭弁(きべん)がまかり通る政治に「戦前のようなきな臭さが漂う」と警鐘を鳴らすことも忘れなかった。
 訃報が伝わったのが成人の日だったのも不思議な巡り合わせだ。
 梅原さんが耕した文化の土壌をぜひ、若い人にも受け継いでほしい。もっとも、それは単純な継承ではないだろう。
 「日本の学界は根本的な懐疑の精神に欠けている」と語っていた梅原さんである。自分を含めた既成のものを突き破るような、勇気のある、面白い学問を何より期待しているはずだ。


▼東京新聞 社説 2019年1月16日付
【社説】梅原猛さん死去 「反戦の知」受け継いで
http://www.tokyo-np.co.jp/article/column/editorial/CK2019011602000176.html?ref=rank

哲学者の梅原猛さんが私たちにのこした大きなものの一つは「反戦の知」ではなかったか。歴史や文学、宗教などを統合して築いた「梅原日本学」の根底にあったのは、生きることを尊ぶことだ。
 十二日、肺炎のため亡くなった。九十三歳。
 戦時中、動員の工場で空襲に遭うなど強烈な戦争体験を持つ。戦後は西洋哲学を軸に研究生活に入るが「自分自身の生きるよすがにならない」と感じ、人に生きる希望を与える「笑いの哲学」の創造を発意。「ノートを手に演芸場に通う学者」として有名になった。
 法隆寺が聖徳太子の鎮魂を目的に建てられたとする「隠された十字架」など古代三部作で「梅原日本学」とされる学風を確立した。
 従来の学説を根本から否定する刺激的な論考。実証性が問われ、時に「神がかり」とも批判されたが「神がかりになる、すなわちインスピレーションに導かれて書かれないような作品はろくなものではない」と反論。本紙に四半世紀にわたり執筆した随筆「思うままに」の最終回(二〇一七年十二月)でも、独創的な哲学の確立を志す心境をつづった。
 同時代に向けて盛んに発言し、行動した。国際日本文化研究センターの創設や「ものつくり大学」の開学に貢献する一方、長良川河口堰(かこうぜき)の建設や名古屋・藤前干潟の埋め立て、諫早湾の潮受け堤防の閉め切りなど、自然環境に影響を及ぼす事業を厳しく批判。脳死に関しては、人間の死として認めない論陣を張るなど、伝統的な死生観に即した視座を保ち続けた。
 原発についても「思うままに」では一九九〇年代から「危険であるばかりか、その廃棄物は少なくとも今の科学の発展段階では、現在及び未来の人類の生存に対して脅威」と何度も廃止を説いた。
 特筆されるのは二〇〇四年、護憲の立場から「九条の会」設立の呼びかけ人になったこと。人や動物だけではなく、植物や鉱物にも仏性が宿るという思想を尊ぶ立場から、生命を問答無用で奪う戦争には終生を通じて反対した。
 「日本人のほとんど全部が戦争を始めることに賛成しても、最後まで反対する人間の一人が私であることは間違いない」(「思うままに」〇三年四月)
 他国の脅威を口実に「戦争のできる国づくり」が進む今、この知の巨人が身をもって訴え続けた反戦と生命尊重の思想を、次の時代へしっかり受け継ぎたい。


▼毎日新聞 社説 2019年
【社説】梅原猛さん死去 独創し続けた巨人を悼む
https://mainichi.jp/articles/20190116/ddm/005/070/067000c

 枠にとらわれない独創的な発想で、人間や文化の本質に迫る生涯だった。哲学者の梅原猛さんが93歳で死去した。
 梅原さんの名を広く知らしめた業績の一つが、古代史探求だ。聖徳太子や柿本人麻呂の死の意味を論考した「隠された十字架」や「水底の歌」といった代表的な著書は大きな反響を呼んだ。
 専門家からは批判されたが、疑いから大胆な仮説を試みる独自の手法は、既成概念にしばられた社会に一石を投じた。
 戦争の理不尽を体験したことも根底にあるのだろう。その哲学は、社会や権力者、文明批判にも切り込むことをいとわなかった。
 日本の文化の基礎は、人間と自然が共生した縄文文化であると説き、人間による自然の征服、自然破壊に警鐘を鳴らした。さらに、近代文明は人間中心の傲慢な文明との考えから、東日本大震災後には、福島第1原発事故を「科学技術文明の文明災」だと指弾した。
 60歳を超えて劇作家としての才も発揮し、三代目市川猿之助(現・二代目猿翁)のためのスーパー歌舞伎「ヤマトタケル」や能、狂言も書いた。そこでも描いたのは、戦争への懐疑や自然への畏敬(いけい)の念を忘れた人間の愚かさだった。
 日本文化を学際的に研究する機関として、「国際日本文化研究センター」(日文研)の設立に尽力したのも大きな功績だ。
 当時の中曽根康弘首相に直談判したことから批判もあったが、いまや実証的かつリベラルな学問の中心的存在だ。自由な気風の中で、磯田道史さん、倉本一宏さん、呉座(ござ)勇一さんといった人気の歴史家が研究者に名前を連ねる。
 現所長が妖怪学で知られる小松和彦さんというのもユニークさの表れだ。梅原さんが貫いた姿勢と精神が、息づいているのだろう。
 人工知能(AI)がさまざまな分野で人間を凌駕(りょうが)しようとしている。その中で人間にしかできないことは何か。科学的には説明がつかないが、そこを突き詰めるなかで、学問や人間の深い奥行きが立ち現れる。
 梅原さんが実践してみせた広い視野での「人文知」が生かされる時ではないか。

▼梅原猛著作集6『日本の深層』小学館
https://www.shogakukan.co.jp/books/09677106
    
〈 書籍の内容 〉
東北・アイヌ・熊野に日本文化の源流を発見した衝撃の日本古代史紀行集。
日本人とは何か、日本文化とは何かを考えるには、七、八世紀を中心とした梅原古代学だけでは不十分であり、日本文化の基層である縄文文化の研究が不可欠である。そこで、著者は縄文文化の名残りを色濃くとどめる東北、アイヌ、熊野の文化に注目する。そして一万年以上にわたって縄文文化の中心地であった東北各地や熊野を旅して、それらの地が日本文化の原郷であることを検証する。従来の日本古代史に大きな衝撃を与えた決定版歴史紀行集。現在の縄文文化再評価のきっかけになったこの作品の意義は大きく、梅原日本学の原点ともいうべき作品である。


▼『日本の深層 縄文・蝦夷文化を探る』梅原猛 集英社文庫
http://books.shueisha.co.jp/items/contents.html?isbn=4-08-748178-6
かつて東北は文化の先進地であり、高度で大規模な縄文文化が栄えていた―。東北各地を旅しながら、日本人の深層に眠る縄文の魂を探り、原日本文化論の新たな出発点をしるす。(解説・赤坂憲雄)