たまりば

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あの記事は8年前のことでした・・・


8年前の個人的違和感の正体を求めて・・・。











































東日本大震災と原発事故の全貌もまだ見えてない段階の頃、栃木県内の新聞に下記のような小さな記事がありました。
あの大混乱の中ですから、その報道をネット上で知ったのは僕も随分と時間が経過していたかとは思われますが、「えっ、東日本大震災の影響で、鉱泥だか鉱毒の堆積場ってものが崩落して、とっくに終わったとばかり思っていた大昔の足尾鉱毒事件の公害被害が渡良瀬川で発生したってど~ゆうこと?」と不思議に思ったものでした。

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▼朝日新聞・栃木版 2011年03月13日付
≪タイトル≫鉛、基準の倍検出/足尾銅山、土砂流出
≪本文≫11日の地震で、旧古河鉱業(現・古河機械金属)の足尾銅山で使用された日光市足尾町原向の源五郎沢堆積(たい・せき)場から渡良瀬川に土砂が流出、川水から環境基準の約2倍の鉛が検出されたことが12日わかった。約40キロ下流では、群馬県桐生市と太田市、みどり市の3市が水道用に取水している。同社は「取水地点までにダムや沢からの流入で十分希釈できる」(池部清彦・足尾事業所長)としているが、土砂の除去を急ぐとともに1日に2度の水質検査を続けるという。
 現場はわたらせ渓谷鉄道の原向駅から下流に約400メートルの地点。土砂が樹木とともに地滑り状に約100メートルにわたって崩れ、同鉄道の線路をふさいで渡良瀬川に流出した。
 堆積場は、銅選鉱で生じる沈殿物(スライム)などを廃棄する場所で、土砂は銅のほか鉛、亜鉛やカドミウムなどの有害物質を含む。足尾事業所が12日、下流2キロの農業用水取水口で水質検査したところ、基準値(0・01ppm)を上回る0・019ppmの鉛を検出した。他の物質は環境基準を下回っているという。現場は流出した土砂の水際が青白く濁っており、同事業所も「堆積場の物質が染み出ている」と認めている。
 源五郎沢への廃棄は1943年に始まったが、58年に決壊して下流に鉱毒被害を出し、翌年から使用を停止していた。
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同じような報道は同年、東京新聞でも成されたようです。
教科書で習ったような明治期の日本最初の公害のような足尾鉱毒事件の被害が2011年に於いても未だに沈静化していなかった事実と自らの不勉強さにも驚きました。

調べてみると、大洪水などが発生すれば今も足尾の施設からは有害物質は流れ出す可能性は続いているようです。約60年前の1958年にも源五郎沢堆積場が決壊し、鉱毒水が流出して下流域一帯に大きな被害をもたらした事件も発生したようです。
つまり120年前の問題が完全な収束には至ってもいないし、下流域でも土壌の汚染が完全には払拭されてもいないというシビアな現実でした。煙害ではげ山と化した地区の植林や治水事業は2019年の今も続いています。

それを思うと、現在進行形の世界最悪の原発事故を抱える我が国はどうなっちゃうんだろうと暗澹たる気分になります。足尾銅山でさえこの有様なんですから、フクシマ第一原発の抱えた廃炉作業や環境汚染などの問題は解決までの道程を考えると桁外れのスケールだと思います。

足尾の事件でも煙害や鉱毒で松木村と谷中村という少なくても2つの村が消されました。人の住めない場所を作ってしまったり、そこから強制的に追い出して無人化するなんて行為は野蛮な気がします。未曾有の原発事故にしても誰も刑事罰で裁かれていないという意味では責任の所在さえ曖昧な気がします。世界最悪の原発事故を起こしても誰も刑事罰で問われないままで、原発を次々に再稼働するのでは次に事故が起きてもまた誰も責任を問われないなんてことも有り得ますよね。

お調子者の僕ですから、最近「ダーク(サイド)ツーリング」と称して、旧谷中村のあった渡良瀬遊水地へ出かけてみり、震災前の2010年5月頃に立ち寄ったことのある(移転前の) NPO法人・足尾鉱毒事件田中正造記念館を訪問したりのバイク遊びをしています。
同記念館は以前は東武佐野線・渡瀬駅近くの保育園の敷地内にあったような記憶がありますが、現在は舘林城近くの昔の武家屋敷があったエリアに移転していました。
スタッフの皆さんに色々と親切に説明してもらい勉強になりました。

昨夏に足尾銅山本山精錬所を見た時に、廃墟のように見えても綺麗な旗が翻っていたりと構内に人の気配があることを不思議に思っていた謎も氷解しました。銅山としては操業はしていなくても、抱えた「負の遺産」を今も処理中ってことだったのです。

僕らのダークサイドツーリングは続く。

▼NPO法人 足尾鉱毒事件田中正造記念館
http://www.cnet-ga.ne.jp/syozou/

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▼東京新聞 2011年11月9日付【こちら特報部】
 東京電力福島原発事故後、足尾銅山鉱毒事件の展示施設に足を運ぶ人が増えているという。鉱毒と放射能の違いはあれ、それを撒(ま)いた加害企業は政府と親密で、被害住民は塗炭の苦しみを強いられた。1世紀以上の時間を隔てながらも、両者は酷似している。足尾事件で闘いの先頭に立った政治家、田中正造は命を懸けて政府を糾弾した。その言葉と歩みはいま、私たちに何を伝えるのか。 (出田阿生、秦淳哉)(11月9日 紙面から)
 「己の愚を知れば則ち愚にあらず、己の愚なることを知らなければ是が真の愚である。民を殺すは国家を殺すなり、法を蔑(ないがしろ)にするは国家を蔑にするなり、人が自ら国を殺すのである」(「田中正造之生涯」=大空社より。原文は旧字)
 足尾鉱毒事件を告発した政治家田中正造は1900(明治33)年2月17日、衆議院でこう大演説をぶった。その4日前、鉱毒被害に苦しむ農民たち約2500人が警官隊と群馬県佐貫村(現在の明和町)で衝突。この「川俣事件」について、政府に抗議した。
 正造は1841年、現在の栃木県佐野市に生まれた。県議を経て、90年に衆議院議員に初当選。帝国議会で足尾銅山の鉱毒被害について質問を繰り返した。1901年に議員を辞職し、被害住民救済を訴えるため、明治天皇に直訴を試みたが、失敗。その後も渡良瀬川の洪水防止を名目とした遊水地建設の反対活動を続けたが、13年に71歳の生涯を閉じた。
 当時、政府が鉱毒被害封じ込めを図ったのは銅生産が「国策」だったため。原子力発電を国策として推進し、大事故後も再稼働方針を揺るがさない現代と共通する。
 「世の中に訴へても感じないと云ふのは、一つは此(この)問題が無経験問題であり又(ま)た目に見えないからと云ふ不幸もございませう」(同)
 同じ演説で正造はこうも述べた。大規模な鉱毒被害を引き起こしても当時の政府は実態を認めようとしなかった。目に見えない物質の影響がどの程度なのか。福島原発事故による放射性物質にもその構図は重なる。
 1897年の衆議院での演説は、より辛辣だった。「先づ鉱毒で植物が枯れる。魚が取れぬ。人の生命が縮まる」「銅山に毒があれば動植物に害を与へると云ふことは古来学者の定論で、農商務の官吏が皆正直でさへあれば其れで宜(よろ)しいのである」「銅山の毒が何に障るかと云ふ位の事は分かり切つて居るのに、農商務省が分からぬと云ふは不思議千万」(同)
 この言葉はすべての情報を開示していない現在の原子力安全・保安院や東電にも当てはまる。
 正造が住んでいた栃木県谷中村は鉱毒沈殿用の渡良瀬遊水地が造られることになり、強制廃村に追い込まれた。加害企業の古河鉱業(当時)と住民の賠償交渉も長期化。閉山した足尾銅山周辺では、いまも少量の鉱毒が流出し続けている。
 今年3月13日、地元紙に一つの記事が載った。栃木県日光市にある古河機械金属足尾事業所の源五郎沢堆積場が、東日本大震災の地震の余波とみられる地滑りで崩れ渡良瀬川に有害物質が流入したという記事だ。
 堆積場とは、銅を精錬した後に残った金属かすを貯蔵している場所。12日に同社が2キロ下流で実施した水質調査では、国の基準値を2倍近く上回る鉛が検出された。
 NPO法人・足尾鉱毒事件田中正造記念館の島野薫理事は「堆積場や1200キロに及ぶ廃坑の坑道からも、有害物質が流れ続けている。足尾銅山の公害は、いまだに終わっていない」と話す。
 田中正造の研究を続ける熊本大の小松裕教授(日本近代史・思想史)は「足尾鉱毒事件と今回の原発事故の構図があまりにも似ていて、本当にびっくりした」と語る。約百年前の正造の言葉を伝えたくて、9月に「真の文明は人を殺さず」(小学館)を出版した。
 放射性物質と同じく「目に見えない毒」に汚染された水や作物を飲み食いすることを正造は「毒食(どくじき)」と表し、汚染地域の農産物の販売や結婚で差別が生じたことに心を痛めた。「低線量の放射線被害は未知の分野。足尾のように福島原発事故の被害者が見捨てられてはならない」(小松教授)
 当時、被害住民は古河鉱業や政府に何度もだまされた。当時、「鉱毒除去のため設置する」と政府が表明した機械は、実は増産を目的とした銅の採集器だった。だが、この採集器設置と引き換えに示談交渉を進めた。
 日清戦争時は「永久に苦情を申し立てない」という示談契約もあった。福島原発事故では東電が後に撤回したが、被災者の賠償請求書に「一切異議・追加請求を申し立てない」と盛り込んだ。
 政府方針の裏付けしかしない“御用学者”たちもいた。足尾鉱毒事件では「銅山から出るのだから銅中毒に違いない」という説が主流だった。その中で、帝国大学医科大学(現在の東大医学部)の林春雄助教授がただ一人、「複合汚染」を疑った。足尾銅山の銅鉱石は硫化銅で鉛や亜鉛、マンガン、ヒ素やカドミウムも含んでいたためだ。
 ところが、林助教授は複合汚染説を提唱した直後、文部省(当時)にドイツ留学を命じられた。林助教授が不在の間に政府は第二次鉱毒調査委員会を設置、遊水地を造って対策を終わらせた。
 小松教授はメディアの責任も指摘する。古河鉱業が鉱毒予防工事を実施した後、当時のマスメディアは「鉱毒問題は終わった」と報道。実際は当時の技術では完全に鉱毒拡散を止められず、被害は広がり続けた。
 北海道で反原発活動を続ける哲学者、花崎皋平(こうへい)さんは「日本社会における倫理観の欠如」を問題の背景とみる。「唯一の行動規範は経済による欲望の充足。欲望のまま、科学技術で何でもやっていいと国策で突き進み、足尾鉱毒事件や福島原発事故を引き起こした」
 原発は半減期が数万年もの放射性物質を生む。放射性廃棄物の処理技術は確立していない。潜在的な核武装でもある-。ドイツ政府は宗教者が加わった「倫理委員会」でこうした論議を重ね、脱原発にかじを切った。
 「現段階では、人間には原子力は扱えない。いくら技術があってもクローン人間をつくってよいのかという話と同じで、倫理的な観点が必要」と花崎さんは話し、正造の残した言葉を引いた。
 「真の文明は 山を荒さず 川を荒さず 村を破らず 人を殺さざるべし」(田中正造の日記)
<足尾鉱毒事件> 1870年代から栃木県旧足尾町(現日光市)の足尾銅山周囲で起きた公害事件。実業家古河市兵衛が77年、渡良瀬川上流部で、銅の鉱業権を獲得。銅は日本の主要輸出品となったが、産出や精錬時に出る鉱毒を含む土砂が川の氾濫などで広がり、農作物や魚などに被害を出した。その後、対策として県内に遊水地を造る案が浮上。県は対象地の谷中村を1906年に強制廃村とした。
<デスクメモ> 足尾鉱毒事件の背景にあった「富国強兵」「殖産興業」の標語は今日、TPP推進派が掲げる「経済成長」に引き継がれている。一世紀以上も成長神話にひれ伏す中、それが市井の人たちを幸せにするのか、という根源的な議論は国政の議場からは聞こえない。この政治家の思考停止こそ犯罪的である。(牧)

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▼東京新聞 田中正造、百年の問い 足尾鉱毒と福島原発 2013年9月2日付

田中正造。足尾鉱毒と生涯をかけて闘った。四日はその没後百年。正造翁が挑んだものは、水俣病や福島原発の姿を借りて、今もそこにあるようです。
渡良瀬遊水地の三つの調整池のうちただ一つ、普段から水をたたえた谷中湖は、巨大なハートのかたちをしています。
そのちょうど、くびれの部分が、旧栃木県谷中村の名残です。前世紀の初め、遊水地を造るために廃村にされながら、そのあたりは水没を免れました。
ヨシ原と夏草に埋もれたような遺跡の奥に分け入ると、延命院というお寺の跡に、古びた赤い郵便受けが立っていて、その中に一冊のノートが置かれています。
◆「連絡ノート」は記す
谷中村の遺跡を守る会の「連絡ノート」。ご自由にあなたの思いを書き込んでくださいと一九九四年に置かれて以来、十七冊目になりました。前夜の雨に湿ったノートをめくってみます。
<5月19日。福島の原発や避難区域に指定されている集落が第二の谷中村にならないことを、ただただ願うばかりです>。東京都品川区の人。
<6月30日。日本近代の公害の原点、谷中の歴史を学び、水俣と谷中を結び、真の文明を未来へつないでいくことを約束します。水俣病事件の受難者に寄り添いながら>。熊本県水俣市の人。
どちらも丁寧な筆跡でした。
原点の公害。それが足尾鉱毒事件です。
現在の栃木県日光市にあった足尾銅山は明治期、東アジア一の産出量を誇っていた。当時の銅は主要輸出品。増産は国策だった。
ところが、精錬時の排煙、精製時の鉱毒ガスが渡良瀬川上流に酸性雨を降らし、煙害が山を荒らした。そのため下流で洪水が頻発し、排水に含まれる酸性物質や重金属類などの鉱毒があふれ出て、汚染水が田畑を荒らし、人々の暮らしと命を蝕(むしば)んだ。
栃木県選出の衆議院議員として、それに立ち向かったのが、田中正造でした。
正造は明治憲法に保障された人権を愚直なまでに信奉し、十一年に及ぶ議員活動の大半を鉱毒問題に費やした。
議員を辞職したあとも、困窮する住民の救済を訴え、一命を賭して明治天皇に直訴した。活動に私財を投じ、死後残した財産は、河原の石ころと聖書、憲法の小冊子。清貧の義民は、小学校の教科書にも紹介されて名高い。
◆重なるふるさと喪失
時の政府はどうでしょう。
煙や排水を止めさせて、根本解決を図ろうとはせずに、夏になると田んぼを真っ白に覆ったという鉱毒を巨大な溜池(ためいけ)を造ってその底に沈殿させ、封じ込めようと考えました。それが谷中湖です。
足尾閉山から今年でちょうど四十年。湖底に積もった毒が、取り除かれたわけではありません。東日本大震災の影響で、渡良瀬川下流から基準値を超える鉛が検出されたのも、偶然とは思えません。
国策の犠牲、大企業や政府の不作為、ふるさとの喪失、そして汚染水…。渡良瀬、水俣、そして福島の風景は重なり合って、この国の実像を今に突きつけます。
田中正造よ、よみがえれ、そう念じたくもなるでしょう。でも、私たちが求めるものは、それだけですか。
去年正造の伝記小説「岸辺に生(お)う」を上梓(じょうし)した栃木県在住の作家水樹涼子さんは「万物の命を何よりも大切に思う人でした」と、その魅力を語ります。同感です。
晩年の日記に残る鮮烈な一節。「真の文明は、山を荒らさず、川を荒らさず、村を破らず、人を殺さざるべし」
それだけではありません。「少しだも/人のいのちに害ありて/すこしぐらいハ/よいと云(い)ふなよ」という狂歌などにもそれは明らかです。
◆私たち自身で出す答え
お金より命が大事、戦いより平和が大事…。原点の公害を振り返り、今学び直すべきことは、何よりも命を大切にしたいと願う、人間の原点なのではないか。
「みんな正造の病気に同情するだけで、正造の問題に同情しているのではない。おれは、うれしくも何ともない」
長年封印されてきたという正造最期の言葉です。
意外でも何でもありません。そもそも誰の問題か。百年の問いに答えを出すべきは、私たち自身なのだということです。

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▼毎日新聞 2013年9月12日付
記者の目:田中正造没後100年=足立旬子(科学環境部)

「公害の原点」と呼ばれる栃木県・足尾銅山の鉱毒事件で、被害者救済に半生をささげた政治家、田中正造(1841〜1913年)が亡くなって今年でちょうど100年。
 「真の文明は、山を荒らさず、川を荒らさず、村を破らず、人を殺さざるべし」
 「デンキ開けて世間暗夜(あんや)となれり」
 経済成長優先の近代文明を鋭く批判した言葉は、100年たっても色あせない。それどころか、東京電力福島第1原発事故後、正造の生き方や思想が再評価されている。
 足尾銅山では、明治政府の富国強兵政策の下、外貨獲得の柱として銅の大増産が古河財閥によって進められた。山の木々は燃料用に伐採されたうえ、製錬時に出る有毒ガスのため枯れて、大雨のたび、鉱毒を含んだ土砂が下流の渡良瀬川沿岸に流れ出た。稲は立ち枯れ、魚は死滅、人々は健康被害に苦しんだ。沿岸住民は「押し出し」と呼ばれる請願運動を繰り返し、国会議員の正造は、国会で国に銅山の操業停止や対策を迫った。しかし、日露戦争に突き進む国は銅生産を優先したため、天皇に直訴を試みた。
 盛り上がる世論を鎮めるため、国は鉱毒を沈殿させる名目で最下流域の旧谷中村(栃木県)に遊水地建設を計画した。正造は谷中村に移り住み、最期まで住民とともに反対運動を展開したが、村は強制的に破壊され、遠くは北海道へ移住を余儀なくされた。
 鉱毒の被害地では、田畑の土の上と下を入れ替える「天地返し」や、汚染された表土を削り取って積み上げる「毒塚」が作られた。命を育む大地が汚染され、何の罪もない人々が故郷を追われた。弱い立場の人たちにしわ寄せがくる構図は原発事故も同じだ。

 ◇「自然を征服」は人間のおごり
 正造が批判したのは、何でもカネに換算する価値観だ。科学技術の力で自然を征服できると考えるのは人間のおごりだと主張した。また「少しでも人の命に害があるものを、少しぐらいは良いと言うなよ」と、人命の尊重が何にも勝ると訴えた。軍備を全廃し、浮いた費用で世界中に若者を派遣し、外交による平和を構築することも唱えた。正造の思想に詳しい小松裕熊本大教授(日本近代史)は「ガンジーよりも早く、非暴力、不服従を実践した」と評価する。
 だが、軍国主義の時代に戦争に反対し、経済成長ではなく、人命を優先せよとの正造の訴えを支持する人は一部だった。運動の資金調達に奔走している最中、渡良瀬川沿岸で倒れ、支援者の家で亡くなった。終焉(しゅうえん)の地の8畳間を代々保存する庭田隆次さん(79)は「今はたくさんの人が見学に来るが、見向きもされない時代も長かった」と話す。
 正造の警句は生かされず、約50年後、今度は水俣病が発生した。化学工場のチッソ水俣工場(熊本県水俣市)で、廃液に含まれていた水銀が不知火海を汚染し、汚染された魚を多く食べた人たちが中枢神経を侵された。しかしチッソも国も生産を優先して対策を怠り、被害が拡大した。
 2020年五輪は東京で開催されることが決まった。だが、福島第1原発の汚染水漏れについて「状況はコントロールされている」と説明した安倍晋三首相に、福島の漁業者や避難生活を送る人々から厳しい目が向けられていることも忘れてはならない。

 ◇国民にも向かう厳しいまなざし
 私財を運動に投じた正造の全財産は、信玄袋に入った大日本帝国憲法と聖書、日記帳、石ころなどわずかだった。死の間際に「見舞客が大勢来ているようだが、うれしくも何ともない。正造に同情してくれるか知らないが、正造の事業に同情して来ている者は一人もない」と言い残したという。また「俺の書いたものを見るな。俺がやってきた行為を見よ」とも言っていた。
 正造と鉱毒事件を研究する「渡良瀬川研究会」の赤上剛副代表(72)は「正造の事業とは鉱毒事件解決だけではない。憲法に基づき、国家が国民の生命と生活をきちんと守るよう、政治も含め社会の仕組みを変えようとした」と話す。
 厳しいまなざしは、国民にも向けられた。採石のため山容が変わるほど削られた霊山「岩船山」(栃木県)を引き合いに「今の政治に今の国民を見る」と嘆いた。
 今月4日の正造の命日に、出身地の栃木県佐野市で法要が営まれた。始まってすぐに雨が激しくなり、雷が何度も鳴り響いた。100年たって日本は経済大国になったが、山や川が荒らされ、人の命が軽んじられている。政治家は、国民は、何をやっているのかと、正造が咤(しった)しているように感じた。一人一人が何ができるかを考え、行動を起こせ−−。雷鳴が胸に刺さった。