まぢなの?カワサキ車のルーツに僅かながら徳川家の血がっ!?
まぢなの?カワサキのルーツに僅かながら徳川家の痕跡がっ!?

学生時代の悪友ツトムが最近カワサキの中古2ストKR-1を手に入れてMCクラブを密かにスタートしたようなので動向を気にしていました。
奴は“族”時代(土曜の夜の天使時代?)はホンダの“ヨンフォア”だったような気もするのだがカワサキSSやKHだったらしい。
奴とは通っていた(?)大学は近所だけど違っていたけれど、やたら俺の大学の学生会館の部室にたむろしていて、東京で知り合った頃はRZ350、後にガンマ250と一貫して2スト派だった。この2ストと俺の4スト、Z400FX~GPz400F時代はよくつるんで遊んでいました。
そのポン友が、先日、ブログに興味深い記事をアップしていました。
▼ブログ「渓流詩人のつれづれ日記」2018年10月22日付 カワサキの魂
https://blog.goo.ne.jp/kelu-cafe/e/545fadebee0a2052d3dd37872a6516dc
カワサキ。
ルーツは徳川慶喜の子であり勝海舟の孫婿である勝精(かつくわし)が作ったオートバイメーカーに遡る。
その二輪メーカーの鉄工所はやがて目黒製作所となり、戦後川崎重工に買収された。
今、カワサキのオートバイを愛する人間には、己の血のルーツが西方であろうと東方であろうと、戊辰戦争での遺恨は存在しない。
ただ、最後の江戸幕府将軍と幕府海軍奉行の末裔がいたから、今のカワサキのオートバイがあるということは、歴史に刻まれた事実だ。
なんだか、カワサキ魂と呼ばれる「我々は常に挑戦者である」という自ら表明しているスピリットは、戊辰戦争での完全なる「敗北者」が内に秘める不屈の魂と重なる。
決して、他の大メーカーのように自らを「絶対君臨者」とは位置付けない。
世界中のオートバイを自社製にしてしまえ、などという奢りもない。
カワサキは常に挑む。
倒れても倒れても立ち上がる。
たとえ今夜は倒れても、きっと信じてドアを出る。
たとえ今日は果てしもなく冷たい雨が降っていても。
それがカワサキだ。
私はカワサキが好きである。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
そもそも奴がカワサキファンだったのにも驚きだったのだが、内容にもビックリした(笑)。
俺もカワサキしか乗り継がないバカなので、名車W1を生んだカワサキが「メグロ」の血統を受け継いでいるくらいのことは知っていたが、カワサキが吸収合併した「目黒製作所」以前の話にまではとんと知識が及んではいなかったのだ。
どうやら彼の話は勝精(かつくわし)という歴史上の人物に遡って記していました。この人は徳川幕府最後の15代将軍、徳川慶喜の実子で十男にあたるそうです。それが諸事情で勝海舟の養子となり、海舟の死後、その家督を相続した人物なんだそうです。そんなこと俺なんか知るわけないよな(笑)。
最後の将軍・徳川慶喜にしても陸軍総裁・勝海舟にしても評価は様々別れるところではありますが、奥羽越列藩同盟がまだ新政府軍と戊申戦争で血を流していたことを考えると江戸全体の市街戦は回避したとはいえ恭順姿勢の評価も心情的には微妙な気もします。まして明治維新以降の軍拡路線の行き着いた先が先の大戦の敗戦だったことを思えば、明治維新から150年とお祭りムードで手放しで喜ぶ気にもなれません。
それはさておき、伯爵となった勝精はお金もあったのか相当に多趣味で遊び人でもあったそうです。まぁ、実父の徳川慶喜も写真撮影などの趣味人だったと伝えられていますからね。
そんな華族の勝精が興味を持ったのが発売されたばかりのハーレーダビットソンだったそうです。屋敷内に小さな鉄工所(村田鉄工所)を設け、1923~1924年頃(大正12~13年頃)にはハーレーを模した1000cc(一説には1200cc)クラスの国産バイク「ヂャイアント号」数台の試作を行ったそうです。どうやらハーレーの国産化でも狙ったとも思えます。
色々と不具合があって商品化には至らなかったようですが、チャレンジ精神としては評価したいよね。
その「村田鉄工所」からエンジニアたちが抜けて独立したのが、「鈴木製作所」を経て後に「目黒製作所」になるというわけです。
まぁ、慶喜の息子の1人が国産バイク製作のきっかけになったのかもしれませんし、そこの人材が後に「メグロ」を世に出すというわけです。「メグロ」が戦後、川崎重工と提携したり最後は吸収されたのはカワサキファンには周知のことでしょうから、大袈裟にいえば、森精は現在のカワサキ車の起源に手を貸したともいえる1人なのかもね。
で、戦前の目黒製作所(空襲で焼けたらしい)の所在地は「荏原郡」にあったとか、「桐ケ谷斎場」や「目黒不動」や競馬場跡も近かったみたいな話なので、学生時代に僕は目黒駅から近い「不動前」と「武蔵小山」の間に住んでいた時期もあり、荏原や桐ケ谷も目と鼻の先だったので案外と知らずにかつての目黒製作所のあったエリアに住んでいたようで親近感も湧いてきました(笑)。
環状6号線と目黒川沿いにあったとされる「陸王」の生産工場も「目黒製作所」とは1キロくらいしか離れていなかったようで戦前の日本のオートバイ産業は東京の城南地区が盛んだったみたいです。
▼目黒製作所 略歴 - メグロの部屋
http://meguroworks.konjiki.jp/meguro_history-2.htm

学生時代の悪友ツトムが最近カワサキの中古2ストKR-1を手に入れてMCクラブを密かにスタートしたようなので動向を気にしていました。
奴は“族”時代(土曜の夜の天使時代?)はホンダの“ヨンフォア”だったような気もするのだがカワサキSSやKHだったらしい。
奴とは通っていた(?)大学は近所だけど違っていたけれど、やたら俺の大学の学生会館の部室にたむろしていて、東京で知り合った頃はRZ350、後にガンマ250と一貫して2スト派だった。この2ストと俺の4スト、Z400FX~GPz400F時代はよくつるんで遊んでいました。
そのポン友が、先日、ブログに興味深い記事をアップしていました。
▼ブログ「渓流詩人のつれづれ日記」2018年10月22日付 カワサキの魂
https://blog.goo.ne.jp/kelu-cafe/e/545fadebee0a2052d3dd37872a6516dc
カワサキ。
ルーツは徳川慶喜の子であり勝海舟の孫婿である勝精(かつくわし)が作ったオートバイメーカーに遡る。
その二輪メーカーの鉄工所はやがて目黒製作所となり、戦後川崎重工に買収された。
今、カワサキのオートバイを愛する人間には、己の血のルーツが西方であろうと東方であろうと、戊辰戦争での遺恨は存在しない。
ただ、最後の江戸幕府将軍と幕府海軍奉行の末裔がいたから、今のカワサキのオートバイがあるということは、歴史に刻まれた事実だ。
なんだか、カワサキ魂と呼ばれる「我々は常に挑戦者である」という自ら表明しているスピリットは、戊辰戦争での完全なる「敗北者」が内に秘める不屈の魂と重なる。
決して、他の大メーカーのように自らを「絶対君臨者」とは位置付けない。
世界中のオートバイを自社製にしてしまえ、などという奢りもない。
カワサキは常に挑む。
倒れても倒れても立ち上がる。
たとえ今夜は倒れても、きっと信じてドアを出る。
たとえ今日は果てしもなく冷たい雨が降っていても。
それがカワサキだ。
私はカワサキが好きである。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
そもそも奴がカワサキファンだったのにも驚きだったのだが、内容にもビックリした(笑)。
俺もカワサキしか乗り継がないバカなので、名車W1を生んだカワサキが「メグロ」の血統を受け継いでいるくらいのことは知っていたが、カワサキが吸収合併した「目黒製作所」以前の話にまではとんと知識が及んではいなかったのだ。
どうやら彼の話は勝精(かつくわし)という歴史上の人物に遡って記していました。この人は徳川幕府最後の15代将軍、徳川慶喜の実子で十男にあたるそうです。それが諸事情で勝海舟の養子となり、海舟の死後、その家督を相続した人物なんだそうです。そんなこと俺なんか知るわけないよな(笑)。
最後の将軍・徳川慶喜にしても陸軍総裁・勝海舟にしても評価は様々別れるところではありますが、奥羽越列藩同盟がまだ新政府軍と戊申戦争で血を流していたことを考えると江戸全体の市街戦は回避したとはいえ恭順姿勢の評価も心情的には微妙な気もします。まして明治維新以降の軍拡路線の行き着いた先が先の大戦の敗戦だったことを思えば、明治維新から150年とお祭りムードで手放しで喜ぶ気にもなれません。
それはさておき、伯爵となった勝精はお金もあったのか相当に多趣味で遊び人でもあったそうです。まぁ、実父の徳川慶喜も写真撮影などの趣味人だったと伝えられていますからね。
そんな華族の勝精が興味を持ったのが発売されたばかりのハーレーダビットソンだったそうです。屋敷内に小さな鉄工所(村田鉄工所)を設け、1923~1924年頃(大正12~13年頃)にはハーレーを模した1000cc(一説には1200cc)クラスの国産バイク「ヂャイアント号」数台の試作を行ったそうです。どうやらハーレーの国産化でも狙ったとも思えます。
色々と不具合があって商品化には至らなかったようですが、チャレンジ精神としては評価したいよね。
その「村田鉄工所」からエンジニアたちが抜けて独立したのが、「鈴木製作所」を経て後に「目黒製作所」になるというわけです。
まぁ、慶喜の息子の1人が国産バイク製作のきっかけになったのかもしれませんし、そこの人材が後に「メグロ」を世に出すというわけです。「メグロ」が戦後、川崎重工と提携したり最後は吸収されたのはカワサキファンには周知のことでしょうから、大袈裟にいえば、森精は現在のカワサキ車の起源に手を貸したともいえる1人なのかもね。
で、戦前の目黒製作所(空襲で焼けたらしい)の所在地は「荏原郡」にあったとか、「桐ケ谷斎場」や「目黒不動」や競馬場跡も近かったみたいな話なので、学生時代に僕は目黒駅から近い「不動前」と「武蔵小山」の間に住んでいた時期もあり、荏原や桐ケ谷も目と鼻の先だったので案外と知らずにかつての目黒製作所のあったエリアに住んでいたようで親近感も湧いてきました(笑)。
環状6号線と目黒川沿いにあったとされる「陸王」の生産工場も「目黒製作所」とは1キロくらいしか離れていなかったようで戦前の日本のオートバイ産業は東京の城南地区が盛んだったみたいです。
▼目黒製作所 略歴 - メグロの部屋
http://meguroworks.konjiki.jp/meguro_history-2.htm