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名栗(飯能)の巨大壁画!?


名栗(飯能)の巨大壁画!?

実は最近まで名称すら知らなかったのが幕末の「武州世直し一揆」の存在でした。
名栗湖(有馬ダム)の手前で突然カラフルに登場するのが「名栗武州世直し一揆」を表現したと思われる壁画です。1866年に勃発したので幕末も幕末、明治元年を2年後に控えた頃のことですから今を遡ること153年前のことです。

江戸時代には約3000件もの百姓一揆があったとされますが、江戸近郊で発生した一揆の中では10万人もの参加者があったとすれば最大級とも云われているようですが、アカデミックな研究は1965年頃から始まっていたものの、一般的にはあまり知られていない幕末の民衆史のような気がします。
僕も岐阜の『郡上一揆』のことなら映画で観たことがあるので名前くらいは知っていましたが、武州一揆のことは存在も含めてまったく知りませんでした。

当時の百姓一揆の大半は年貢の値下げや借金の帳消し等の経済闘争でしたが、武州一揆には「世直し」というスローガンが掲げられたとすれば意味が少し異なってきます。「平均世直し大明神」という旗もあったそうです。貧富の差のない平等な社会を希求したのかもしれません。富裕農民層と半プロレタリア貧民農民層間の雄物史観的な階級闘争めいたものだけでは単純に括れないとも思います。一揆の性格も変わってきたようです。

農民層に於いても長い封建制の過程で富農と貧農の分離と格差拡大が背景にあったと思われますし、幕府の第二次長州征伐の影響で物価(米価格)が高騰して不満が鬱積したり、江戸の警備が手薄になったという事情もあったようです。
恐らく、非武装の武州一揆が後の「秩父事件」に及ぼしたであろう影響も考えられます。武州一揆は藩兵や農兵の鉄砲隊の前に鎮圧されたそうですが、後の秩父事件は武装蜂起の形態をとっています。

名栗や飯能の歴史にもまだまだ面白いものが眠っていそうです。
バイクで走れば色んなことにも出くわしますね。

しかし、農民一揆が幕府や藩によって組織された武装した農兵によって鎮圧されたという事態は悲劇といえば悲劇でもありますよね。まぁ、農兵には豪農によって組織された自警団的な側面もあったのでしょうね。

▼奥むさし飯能観光協会
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