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作年末の「MR.JIMMY」凱旋ライブの第3弾映像出ました♪


作年末の「MR.JIMMY」凱旋ライブの第3弾映像出ました♪

1977年のセットリストでは「コミュニケーションブレイクダウン」って入ってなかった気がしたけど、あのアンコール曲の付け足しは即興サービスだったとは(笑)。


▼MR. JIMMY Led Zeppelin Revival [Black Dog - Communication Breakdown]
https://www.youtube.com/watch?v=136Gh0cDZZA&list=RD136Gh0cDZZA&start_radio=1&t=2&t=3&t=2



▼MR. JIMMY Led Zeppelin Revival Show....Whole Lotta Love-Rock And Roll 1977
https://www.youtube.com/watch?v=GnE5VQx4sTk



▼MR. JIMMY Led Zeppelin Revival Show....The Song Remains The Same 1977
https://www.youtube.com/watch?v=6hidT9YKXGc&start_radio=1&list=RD6hidT9YKXGc&t=32



▼MR. JIMMYご本人による“ライナーノーツ” 2018年12月14日
https://www.tv-asahi.co.jp/reading/ex-theater/30267/

EXシアター六本木でMR. JIMMYとともにレッド・ツェッペリンの
素晴らしい音楽を分かち合うための、ご本人による“ライナーノーツ”

今回の演目である1977年6月21日のL.A.フォーラム公演は、ブートレッグでは『LISTEN TO THIS EDDIE』というタイトルで多くのコアなツェッぺリンファンが聴いたことのある音源だと思います。
(1977年ロサンゼルスで行われた全6公演の第一夜です)
LED ZEPPELINの魅力の真骨頂とも言えるライブパフォーマンスですが、
そこに至るまでの変遷について知ることで本公演への理解がさらに深まり、新たな魅力として感じていただけるのではと思い、少しご説明したいと思います。

レッド・ツェッペリンは1968年のバンドデビューから1973年まで、毎年欠かさずツアーを続けていました。当時のミュージックビジネスの成長と共に彼らを取り巻く状況もまた年々、巨大化していき、そしてそれは彼ら自身が創る音楽にも関わっていきました。ツアーを重ねるにつれてデビュー当時の主な会場であったクラブやシアターから、より多くのオーディエンスを収容出来るホールやスタジアムに変わり、それに合わせてバンドの演奏メソッドやステージパフォーマンスの形態も変わっていきました。多くのファンが感じられているように、1973年頃までとそれ以降の彼らのライブパフォーマンスに違いがあるのもそうした理由からと考察できます。

大成功を収め映画にもなった1973年のツアーを終えた翌年1974年のU.S.ツアーを計画するも、毎年の長いツアー生活に疲れ果てていたジョン・ポール・ジョーンズがバンドに脱退を表明し、それを熟慮した結果、’74年はツアーをせずレコーディングに専念、そして結果的にそれ以降は1975年と1977年の2回のみがアメリカでの公演となってしまいました。

1975年頃から蔓延していた音楽とドラッグの関係はこの1977年ツアー時は最悪ともいえる事態に陥っており、ステージ上の演奏はジミー・ペイジ、ジョン・ボーナム共にかなりラフさが目立ち、それを客観視したエディ・ヴァン・ヘイレンがペイジについて酷評したことに対しての回答的なライブが音源となって、本演目のタイトルでもある『LISTEN TO THIS EDDIE』(「聴いてみろよ、エディ!」)と名付けられたというわけです。

実際にこの日をはじめLA公演のテンションは特に高く、オープニングから凄まじいパフォーマンスとなりました。たしかにドラッグの影響で演奏面ではラフな部分もありますが、しかしそんな事は帳消しになるくらいステージ上での彼らのパフォーマンスは存在感に溢れ客席にエナジーを放っていました。そのエナジーこそがこの1977年に特徴的なツェッペリンのライブスタイルです。

ブルースを基調にじっくりと聴かせた初期のツェッペリンと、音楽市場の巨大化に則してオーディエンスに”見せる”ことを意識したエンターテインメントの世界を表現したツェッペリンとの大きな違いを感じていただけると思います。どちらも偉大なLED ZEPPELINなのです。当時の8ミリなどで撮られたブートレッグ映像でも、ステージアクションの大きさや圧倒的なカッコ良さでバンドがどれだけハイだったかを窺い観ることができます。同年7月24日まで繰り広げられたツアーの選曲も大筋同じ内容でしたが何曲か違いもあり、6月21日についても若干の差し替えがみられます。

今回、MR. JIMMYはこの1977年6月21日のハイテンションな演奏とセットリストを基本に演奏メソッドはあくまでも1977年当時の彼らのテクニックとエモーションを用いて、この大作ライブのリバイバルに挑みます。

機材も当時のセットに可能な限り近くセットアップします。ジョン・ポール・ジョーンズはこの年よりメインのベースをフェンダーのジャズベースからアレンビックに持ち替え、アンプもそれまでのトレードマークだったアコースティックからハイフリーケンシーなアンプに替えて、バンドのアンサンブルをそれまでよりブライトなものに変えました。ジョン・ボーナムのドラムセットはビスタライト・キットからステンレス・スティール製の大音量タイプに。

これら使用楽器の変遷も彼らの音楽的なアレンジや全体のアンサンブルをも変化させることに繋がりました。MR. JIMMYが日頃より同じ楽器を使うことが正しい演奏メソッドを教えてくれるというポリシーを貫くのもその事実をリスペクトしてこそです。正しい楽器を用いて正確な演奏メソッドを習得することがその音楽が持っていたエナジーを“蘇生”させるリバイバル・バンドの最初の一歩です。

ただ同じ音符をなぞってコピーするのではなく、何が本物なのか、音楽とは何か、パッション、エナジーとは…音符にならないその世界観を、いまここに生きる生身のミュージシャンの演奏によってパラレルワールドのごとく限りなく近い可能性を表現すること。それは決して勝手な自己解釈に基づくのではなく、MR. JIMMYメンバ−の絶え間ない検証と試行によって出来ることであり、今回アメリカからフランキー・バナリ、オーガスト・ヤングというツェッペリン愛に溢れた素晴らしいミュージシャンと日本で二十年以上僕と一緒にレッド・ツェッペリンを追求してきたジョンジー大塚とともに皆さんに披露する機会をいただいたことは、僕の音楽人生においてとても大きな事です。

そして、この1977年という機材やセットの再現においてツェッペリン史上でも特に難しい年代をリバイバルするため、音楽と同じ熱意を持ってステージセットの再現に取り組んでくれた会場は、世界広しといえどもここEXシアター六本木だけであるということを、ぜひ皆さんに知っていただきたいのです。

これは、僕がアメリカで活動して感じた紛れもない現実です。ここまで細部に亘るこだわりを持って、レッド・ツェッペリンの持っていた魅力を蘇生することに迫ろうとする熱意と技術は、おそらくアメリカだけでなく世界中どこを探しても現在無いと確信しています。当日来て下さった皆さんには、このステージがレッド・ツェッペリンという素晴らしい音楽が生んだ奇跡的なコラボレーションの集大成なのだとご理解いただいてライブショーを楽しんでいただけると嬉しいです。

そして皆さんにお願いです。このようなバンドのスキルとアティチュード、ステージセットがあっても、会場のお客様の反応と歓声がなければライブショーは完成しません。

当時のツェッペリンがそうだったように、会場の皆さんからのエナジーがライブのマジックを生むのです。どうかひととき、日常の比較的穏やかな日本人の慣習を忘れて、1977年のツェッペリンと同じく思いきりハイテンションに、感じるがままに声援をお送りいただけると、まさに今夜皆さんがいるEXシアター六本木が一つになって 1977年当時そのものの興奮をリバイバルできると信じております。

―― JIMMYが確信する、「レッド・ツェッペリンの音楽にはリバイバルする価値がある」ということを皆さんと分かち合えたら限りない幸せです。

2018年12月Jimmy SAKURAI


▼EX THEATER ROPPONGI PRESENTS
LED ZEPPELIN結成50周年特別企画公演 
MR. JIMMY『ロックショー・リバイバル』
Listen To This Eddie1977 The last US tour of LED ZEPPELIN
http://www.mandicompany.co.jp/MrJimmy.html

レッド・ツェッペリン 結成50周年記念公演
「プレゼンス」発売後に行われた最後のUSツアーの全貌がいま蘇る!

記念すべきレッド・ツェッペリン結成50周年の今年、現在ジェイソン・ボーナム[JBLZE]メンバーとして
ツアー中のジミー桜井が自身のリーダーシップ・バンド [MR. JIMMY]を率いて凱旋公演。
“レッド・ツェッペリン・リバイバル”をコンセプトに、1977年アルバム『プレゼンス』発売の翌年に行われた
ツェッペリン最後のUSツアーの名演[Listen To This Eddie]が、EXシアター六本木で眼前に甦る。

■メンバー:ジミー桜井(G)/フランキー・バナリ(Dr)/オーガスト・ヤング(Vo)/ジョンジー大塚(B&K

●2018年12月21日(金)
●EX THEATER ROPPONGI
http://www.ex-theater.com/
●開場18:00  開演19:00
●全席指定¥7.800(税込) ※入場時ドリンク代別途必要

▼MR.JIMMYオフィシャルサイト http://mrjimmy.jp
https://www.mrjimmyledzeppelinrevival.com/

▼『世界で一番ジミー・ペイジになろうとした男』
ジミー桜井(著)/田坂 圭(著)/リットーミュージック
https://www.rittor-music.co.jp/product/detail/3117313009/

▼Jimmy SAKURAI YouTubeチャンネル
https://www.youtube.com/user/mrjimmyjp2012





  • それは僕にとってのバイク旅の手引き書でもありました。


    それは僕にとってのバイク旅の手引き書でもありました。



    バイク乗りの僕らが旅に出る理由って十人十色だと思います。
    バイク雑誌や旅行ガイドブックで見かけた絶景スポットや魅惑的なロードだったり、テレビの情報番組で目にした美味しそうな特産品や名物料理だったり、有名なライダーの旅にまつわる素敵なエッセイ本だったりと動機は様々ですよね。僕の場合は興味の関心が「歴史」や「文化」だったりもするので、そんな地を訪問してみたくてバイクを駆ることがあります。

    その意味では1月12日に93歳で亡くなった哲学者・梅原猛さんの梅原猛著作集6『日本の深層~縄文・蝦夷文化を探る』(2000年/小学館)は、本の帯にもあるように「梅原日本学の原点/東北、アイヌ、熊野から縄文文化へ知の紀行集」と、興味の尽きない土地を網羅していることもあり、僕をバイク旅に誘う知的刺激に満ちた大切な指南書のひとつです。
    2015年の哲学者・鶴見俊輔さんの訃報に続き、先日の哲学者・梅原猛さんの訃報はとても残念なニュースでした。

    1999年の夏、MC井戸端会議は10数名で「アイヌモシリ」(北海道)道東をキャンプ旅しました。
    2000年の夏、僕は仲間たちに「俺は今年は思うところあって東北6県を1人で周ることにしました。8月8日に宝生能楽堂での大倉正之助さんの飛天双〇能『翁付五流五番能』を観てから出発するので、予定では8月12日に十和田湖畔の何処かのキャンプ場に入るつもりなので、北海道から下ってくる先発組も、東京から北海道を目指して登ってくる後発組も十和田湖集合ね♪」と仲間たちに勝手に宣言してのバイク旅でした。(この旅の模様は2001年12月発行の「カワサキマインド」誌創刊号で8ページに渡って掲載してもらいました)

    前年の北海道旅から翌年の東北6県旅への裂け目に横たわるものは、間違いなく1999年秋に東北芸術工科大学・東北文化研究センターから発行された『東北学 vol.1【総特集】いくつかの日本へ』(赤坂憲雄責任編集/作品社)に触れた衝撃でした。

    この書の巻頭の「創刊に寄せて」の中で民俗学者の赤坂憲雄さんが「東北ははじまりの場所である。新たな列島の民族史的景観を拓いてゆくための、それゆえに選ばれた、ささやかな知の脈流の拠点である。この移ろい、揺れるはじまりの地から、『いくつもの日本』を孕んだ、もうひとつの歴史への方法を鍛えてゆかねばならない。まず、そこにある東/西の円形をなす土俵を、その、あらかじめ約束された予定調和のフィールドを突き崩すことから始めたい、と思う。西南の方位にある都にとって、東北はつねに『奥』を冠された、東の果ての荒涼たる辺境の地であった。東/西の軸に沿った眼差しの地政学こそが、辺境という宿命を、宿命の装いを凝らしつつ東北に強いてきた根源である。それは逃れがたい手かせ足かせとなって、その地にある人々の意識を呪縛してきた。この呪縛を解きほぐすために、いま東/西の土俵の外に立つことが求められている。それから、南/北の混沌を宿した四角いジャングルへと赴くことにしよう。この弧状なす列島の南/北の方位には、異相の風景が豊かに埋もれている。『ひとつの日本』の懐に抱き取られることを拒みながら、縄文へと連なる『いくつもの日本』の鉱脈が覗けている。それをひとつひとつ掘り起こし、糧として、素材として、『いくつもの日本』を抱いた列島の民族史的景観を拓いてゆかねばならない。東北はそのとき、縄文を底に沈めて北に深く繋がりつつ、弥生以降の歴史のなかでは、西の文化をくりかえし受け入れ、大きな変容の跡を刻まれてきた地域として見いだされる。だから東北には、『ひとつの日本』に穿たれた裂け目が数も知れずに存在する。」と書いておられました。

    この視座は2000年に出た『東西/南北考―いくつかの日本へ』(赤坂憲雄著/岩波新書)も同じで、それまで僕は例えば歴史学者の網野善彦さんの『東と西の語る日本の歴史』(講談社学術文庫)などを読んでいたので、“網野史学”で触れていた東西と異なる視線の南北考に発想の転換は刺激的でした。
    網野さんにしても赤坂さんにしても、両者とも「そもそも日本人は同じ言語・人種からなる単一民族説という幻想と呪縛に捉われすぎではないのだろうか」というところが出発点にあるでしょうし、そんな疑問や自由な研究もこの国が戦争で負けるまでは許されてはこなかったと思います。
    「ひとつの日本」という歴史認識のほころびに、“網野史観”を発展的に覚悟を決めて学術的に継承した感のある気鋭の民俗学者が赤坂さんですが、それ以前的に岡本太郎さんじゃありませんが、半ば直感や霊感的に思わせながらの節もがありますが、とんでもないくらいの新説や仮説を発表していたのが梅原猛さんだったのかもしれません。

    梅原猛さんの数ある著作の中でも、この『日本の深層 縄文・蝦夷文化を探る』(集英社文庫)は、梅原さん初の蝦夷論・東北論な気もして外せません。
    文庫本の解説は赤坂憲雄さんですが、「『日本の深層』は疑いもなく、一個の衝撃だった。大胆不敵な、と称していい仮説の書、いや、あえていえば予言の書である。」と評していました。
    この本が最初に世に出たのは1983年のことですが、「三内丸山遺跡」が発見されたのは1994年ですから、「序章・日本文化の源流を探る」の中で大胆にも「しかし、数年前から私は気づきはじめていた。東北はけっして歴史のはじめから、文化果つるところではなかったことを。縄文時代という時代、特に後期から晩期にかけて、東北はまさに日本文化の中心地であった。今日、日本のいたるところで数多くの縄文遺跡が見出され、古くから日本において、狩猟採集文化としては世界でも有数な高度の文化が栄えていることがわかりはじめてきた。」と、後の三内丸山遺跡の発見でも予感していたかのような部分に容易に出くわします。
    今、読んでも色褪せていなさが新鮮で面白い書です。まぁ、「蝦夷」という表記漢字を全て「えぞ」と読ませて、「えみし」(蝦夷)と「えぞ」(蝦夷)の区別が曖昧で「えっ?これ大丈夫?」という粗削りの部分はありますが、それはまぁ1980年代初頭に出た作品ですから今よりは区別がアバウトだったのか梅原さんご自身が割と無頓着な性格だったような気がします。

    限られた日程の中で北海道ツーリングを組むと、どうしても行きも帰りも東北自動車で一挙に駆け抜けてしまいがちです。それでは豊かな自然と文化と歴史のある東北を見落としてしまいます。
    『日本の深層』は旅行記ですから学術書に比べれば親しみやすいですし、文庫の新版には会津と山形への旅が追加されています。(全集には紀州の「熊野」編も収録されています。熊野もまた僕にとっては大きな興味のひとつです)
    興味深いテーマが満載ですから、バイク旅の刺激的な訪問先のヒントになります。

    それにしても、35年くらい前に出た『日本の深層』は今、読んでも面白いよね。逆に当時から研究が進んで明らかになった事柄もありますしね。
    ちょっと久しぶりに読み返してみようかな。
    その目次を見ただけでも「何があるんだろう」とワクワクするはずです。

    【目次】
    序章 日本文化の源流を探る
    1章 大和朝廷の前線基地、多賀城
    2章 「大盗」もふれえなかった平泉文化の跡
    3章 宮沢賢治の童話の語る日本人の隠された心の深層
    4章 山人と神々の声のこだまする遠野
    5章 強い自負と奔放な想像力をもつ東北の詩人たち
    6章 洞窟の奥深く隠されたもの
    7章 みちのくの果てに栄えた華麗な文化
    8章 ディオニュソス的空想と熱狂の地、津軽
    9章 「おしらさま」の意味するもの
    10章 生霊、死霊の故郷、出羽三山
    終章 新たな文化原理の発掘
    会津魂の深層
    山形紀行


    この梅原猛著作集の表紙は僕の手垢で随分と汚れていて、今から20年くらい前だとは思いますが、かなり興味深く読んだ記憶があります。
    同時期、講談社からは「日本の歴史」シリーズが刊行され、編集委員は網野義彦さんで、00巻の「『日本』とは何か」(2000年)も「戦後歴史学」を総括する意味で興味深く読んでいた気がします。テーマが「日本」とは何かという根源的な問いかけでもありましたしね。「孤立した島国日本」という従来までの虚像に鋭い批判も浴びせていました。その網野さんも2004年に他界されてしまいました。僕の所属(?)するオートバイ集団の族長殿からは「いいか、松岡正剛と網野善彦くらいは読んどけよ」と発破をかけられていた気がします。

    『日本の深層』の詳しい解説は松岡正剛先生の下記のサイトにお任せしましょう。
    “知の巨人”松岡正剛さんも「この本は梅原猛の数ある著作を画期する一冊で、かつ、いまこそ読まれるべき「日本=東北」の深層をあざやかに解く一冊である。ここには、石巻や仙台に隠された生をうけた梅原の、東北に寄せる深くて熱いまなざしが生きている。縄文と蝦夷、アイヌと日本人、仏教と修験道、柳田国男の目、啄木の詩、賢治の心、さらには太宰や徳一を通して、大胆な梅原日本学の入口が次々に示される。」と高く評価されていました。

    そして2011年に東北を襲った未曾有の災害と原発事故の衝撃は、都市と地方の歪んだ関係、とりわけても明治から現代に至るまでの政府と東北と呼ばれる地域の関係を僕らに問い直すきっかけを与えてもくれた気がします。
    それまで遠景でしかなかった東北が再び目前に迫ってきた思いです。
    東北にはまだまだ僕の知らない豊かなものがいっぱい眠っている気がします。

    八戸出身の小説家・木村友祐さんの『イサの氾濫』の爆発、山形出身の白崎映美さんのフォトエッセイ『鬼うたひ』、1stアルバム『まづろわぬ民』を引っ提げての「白崎映美&東北6県ろ~るショー!!」という凄いバンドの登場、演劇集団・風煉ダンスによる公演『まつろわぬ民』と、僕の東北熱は上昇する一方です。風煉ダンスのプレイベントで赤坂先生のお顔を拝んだ時には興奮したものです。

    ブラッドベリの『華氏451度』じゃありませんが、やっぱり本は読まないといけないよね。この国もこのままではディストピアになっちゃいそうだからね。


    ▼松岡正剛の千夜千冊 1418夜『日本の深層』梅原猛著
    https://1000ya.isis.ne.jp/1418.html


    ▼梅原猛著作集6『日本の深層』小学館
    https://www.shogakukan.co.jp/books/09677106
        
    〈 書籍の内容 〉
    東北・アイヌ・熊野に日本文化の源流を発見した衝撃の日本古代史紀行集。
    日本人とは何か、日本文化とは何かを考えるには、七、八世紀を中心とした梅原古代学だけでは不十分であり、日本文化の基層である縄文文化の研究が不可欠である。そこで、著者は縄文文化の名残りを色濃くとどめる東北、アイヌ、熊野の文化に注目する。そして一万年以上にわたって縄文文化の中心地であった東北各地や熊野を旅して、それらの地が日本文化の原郷であることを検証する。従来の日本古代史に大きな衝撃を与えた決定版歴史紀行集。現在の縄文文化再評価のきっかけになったこの作品の意義は大きく、梅原日本学の原点ともいうべき作品である。

    ▼『日本の深層 縄文・蝦夷文化を探る』梅原猛 集英社文庫
    http://books.shueisha.co.jp/items/contents.html?isbn=4-08-748178-6
    かつて東北は文化の先進地であり、高度で大規模な縄文文化が栄えていた―。東北各地を旅しながら、日本人の深層に眠る縄文の魂を探り、原日本文化論の新たな出発点をしるす。(解説・赤坂憲雄)

    ▼『東西/南北考―いくつもの日本へ』 (赤坂憲雄著/岩波新書/2000年)
    https://www.iwanami.co.jp/book/b268519.html
    ▼『東と西の語る日本の歴史』(網野善彦著/講談社学術文庫/・1982年)
    http://bookclub.kodansha.co.jp/product?item=0000150944
    ▼「日本」とは何か 日本の歴史00 網野義彦著/講談社学術文庫
    http://bookclub.kodansha.co.jp/product?item=0000211380
    http://bookclub.kodansha.co.jp/product?item=0000199819


    ▼京都新聞 社説 2019年1月15日
    社説:梅原猛さん死去 「知の探求」受け継ごう
    https://www.kyoto-np.co.jp/politics/article/20190115000047

     梅原猛さんが亡くなった。
     戦後日本を代表する哲学者で、あくなき知的好奇心に満ちた「知の探求者」だった。通説に果敢に切り込み、独創的な学問を打ち立てた功績は計り知れない。
     京都の文化土壌を考えるとき、真っ先に顔が浮かぶのが梅原さんではないか。
     仙台市出身の梅原さんが京都に来たのは、西田幾多郎や田辺元ら京都学派の哲学者へのあこがれからだった。だが、西田哲学の正統な継承者にはならなかった。
     京都学派の流れでも、むしろ異端の人だったという。異端を包み込む京都の文化土壌の中で、京都学界を代表する存在となった。
     時に批判、黙殺されても、絶対的なものへの反骨、既成概念への疑いが学問を支えていた。若い頃に直面した戦争がその根源にあったことは間違いない。
     自分は生き延びたという後ろめたさがあり、死に対する不安を人間の本質と捉えたハイデッガーの哲学に引かれたという。
     「自国にしか通じない日本主義では駄目だ」とも語っている。そんな思いは国際日本文化研究センターの創設にもつながった。
     西洋に代表される近代文明の行き詰まりを打開し、人類を救済する哲学を日本から打ち立てたいと情熱を燃やし続けた。
     社会が複雑化し、多くの学問や研究が狭い専門領域に「たこつぼ化」していると言われる。そんな中で、古代史や文学、宗教などを大胆に横断する梅原さんの哲学は独特の輝きを放った。
     学問が本来持つ面白さを気づかせてくれたからではないか。
     書斎の人にとどまらない、実践的行動の人でもあった。社会問題に積極的に発言した姿も印象深い。「九条の会」の呼びかけ人や、東日本大震災復興構想会議の特別顧問も引き受けた。
     常に日本の未来を案じていればこそだろう。安保法制を問い、詭弁(きべん)がまかり通る政治に「戦前のようなきな臭さが漂う」と警鐘を鳴らすことも忘れなかった。
     訃報が伝わったのが成人の日だったのも不思議な巡り合わせだ。
     梅原さんが耕した文化の土壌をぜひ、若い人にも受け継いでほしい。もっとも、それは単純な継承ではないだろう。
     「日本の学界は根本的な懐疑の精神に欠けている」と語っていた梅原さんである。自分を含めた既成のものを突き破るような、勇気のある、面白い学問を何より期待しているはずだ。

    ▼東京新聞 社説 2019年1月16日付
    【社説】梅原猛さん死去 「反戦の知」受け継いで
    http://www.tokyo-np.co.jp/article/column/editorial/CK2019011602000176.html?ref=rank

    哲学者の梅原猛さんが私たちにのこした大きなものの一つは「反戦の知」ではなかったか。歴史や文学、宗教などを統合して築いた「梅原日本学」の根底にあったのは、生きることを尊ぶことだ。
     十二日、肺炎のため亡くなった。九十三歳。
     戦時中、動員の工場で空襲に遭うなど強烈な戦争体験を持つ。戦後は西洋哲学を軸に研究生活に入るが「自分自身の生きるよすがにならない」と感じ、人に生きる希望を与える「笑いの哲学」の創造を発意。「ノートを手に演芸場に通う学者」として有名になった。
     法隆寺が聖徳太子の鎮魂を目的に建てられたとする「隠された十字架」など古代三部作で「梅原日本学」とされる学風を確立した。
     従来の学説を根本から否定する刺激的な論考。実証性が問われ、時に「神がかり」とも批判されたが「神がかりになる、すなわちインスピレーションに導かれて書かれないような作品はろくなものではない」と反論。本紙に四半世紀にわたり執筆した随筆「思うままに」の最終回(二〇一七年十二月)でも、独創的な哲学の確立を志す心境をつづった。
     同時代に向けて盛んに発言し、行動した。国際日本文化研究センターの創設や「ものつくり大学」の開学に貢献する一方、長良川河口堰(かこうぜき)の建設や名古屋・藤前干潟の埋め立て、諫早湾の潮受け堤防の閉め切りなど、自然環境に影響を及ぼす事業を厳しく批判。脳死に関しては、人間の死として認めない論陣を張るなど、伝統的な死生観に即した視座を保ち続けた。
     原発についても「思うままに」では一九九〇年代から「危険であるばかりか、その廃棄物は少なくとも今の科学の発展段階では、現在及び未来の人類の生存に対して脅威」と何度も廃止を説いた。
     特筆されるのは二〇〇四年、護憲の立場から「九条の会」設立の呼びかけ人になったこと。人や動物だけではなく、植物や鉱物にも仏性が宿るという思想を尊ぶ立場から、生命を問答無用で奪う戦争には終生を通じて反対した。
     「日本人のほとんど全部が戦争を始めることに賛成しても、最後まで反対する人間の一人が私であることは間違いない」(「思うままに」〇三年四月)
     他国の脅威を口実に「戦争のできる国づくり」が進む今、この知の巨人が身をもって訴え続けた反戦と生命尊重の思想を、次の時代へしっかり受け継ぎたい。


    ▼毎日新聞 社説 2019年
    【社説】梅原猛さん死去 独創し続けた巨人を悼む
    https://mainichi.jp/articles/20190116/ddm/005/070/067000c

     枠にとらわれない独創的な発想で、人間や文化の本質に迫る生涯だった。哲学者の梅原猛さんが93歳で死去した。
     梅原さんの名を広く知らしめた業績の一つが、古代史探求だ。聖徳太子や柿本人麻呂の死の意味を論考した「隠された十字架」や「水底の歌」といった代表的な著書は大きな反響を呼んだ。
     専門家からは批判されたが、疑いから大胆な仮説を試みる独自の手法は、既成概念にしばられた社会に一石を投じた。
     戦争の理不尽を体験したことも根底にあるのだろう。その哲学は、社会や権力者、文明批判にも切り込むことをいとわなかった。
     日本の文化の基礎は、人間と自然が共生した縄文文化であると説き、人間による自然の征服、自然破壊に警鐘を鳴らした。さらに、近代文明は人間中心の傲慢な文明との考えから、東日本大震災後には、福島第1原発事故を「科学技術文明の文明災」だと指弾した。
     60歳を超えて劇作家としての才も発揮し、三代目市川猿之助(現・二代目猿翁)のためのスーパー歌舞伎「ヤマトタケル」や能、狂言も書いた。そこでも描いたのは、戦争への懐疑や自然への畏敬(いけい)の念を忘れた人間の愚かさだった。
     日本文化を学際的に研究する機関として、「国際日本文化研究センター」(日文研)の設立に尽力したのも大きな功績だ。
     当時の中曽根康弘首相に直談判したことから批判もあったが、いまや実証的かつリベラルな学問の中心的存在だ。自由な気風の中で、磯田道史さん、倉本一宏さん、呉座(ござ)勇一さんといった人気の歴史家が研究者に名前を連ねる。
     現所長が妖怪学で知られる小松和彦さんというのもユニークさの表れだ。梅原さんが貫いた姿勢と精神が、息づいているのだろう。
     人工知能(AI)がさまざまな分野で人間を凌駕(りょうが)しようとしている。その中で人間にしかできないことは何か。科学的には説明がつかないが、そこを突き詰めるなかで、学問や人間の深い奥行きが立ち現れる。
     梅原さんが実践してみせた広い視野での「人文知」が生かされる時ではないか。





  • 僕にとっては旅を誘う書でもありました。


    僕にとっては旅を誘う書でもありました。



    2015年に哲学者の鶴見俊輔さんがお亡くなりになった際も戦後の大きな知の巨人の喪失を感じましたが、先日の哲学者の梅原猛さんの訃報にも同様の喪失感を禁じ得ません。
    幾つかの新聞の社説でも梅原さんの死を悼んで記事を掲げていました。
    それにしても、『日本の深層』は今、読んでも面白いよね。
    ちょっと久しぶりに読み返してみようかな。
    この全集は表紙は僕の手垢で汚れていて、20年くらい前だと思うけど、かなり興味深く読んだ記憶があります。
    解説は松岡正剛先生の下記のサイトにお任せしましょう。

    ▼松岡正剛の千夜千冊 1418夜『日本の深層』梅原猛著https://1000ya.isis.ne.jp/1418.html


    ▼京都新聞 社説 2019年1月15日
    社説:梅原猛さん死去 「知の探求」受け継ごう
    https://www.kyoto-np.co.jp/politics/article/20190115000047

     梅原猛さんが亡くなった。
     戦後日本を代表する哲学者で、あくなき知的好奇心に満ちた「知の探求者」だった。通説に果敢に切り込み、独創的な学問を打ち立てた功績は計り知れない。
     京都の文化土壌を考えるとき、真っ先に顔が浮かぶのが梅原さんではないか。
     仙台市出身の梅原さんが京都に来たのは、西田幾多郎や田辺元ら京都学派の哲学者へのあこがれからだった。だが、西田哲学の正統な継承者にはならなかった。
     京都学派の流れでも、むしろ異端の人だったという。異端を包み込む京都の文化土壌の中で、京都学界を代表する存在となった。
     時に批判、黙殺されても、絶対的なものへの反骨、既成概念への疑いが学問を支えていた。若い頃に直面した戦争がその根源にあったことは間違いない。
     自分は生き延びたという後ろめたさがあり、死に対する不安を人間の本質と捉えたハイデッガーの哲学に引かれたという。
     「自国にしか通じない日本主義では駄目だ」とも語っている。そんな思いは国際日本文化研究センターの創設にもつながった。
     西洋に代表される近代文明の行き詰まりを打開し、人類を救済する哲学を日本から打ち立てたいと情熱を燃やし続けた。
     社会が複雑化し、多くの学問や研究が狭い専門領域に「たこつぼ化」していると言われる。そんな中で、古代史や文学、宗教などを大胆に横断する梅原さんの哲学は独特の輝きを放った。
     学問が本来持つ面白さを気づかせてくれたからではないか。
     書斎の人にとどまらない、実践的行動の人でもあった。社会問題に積極的に発言した姿も印象深い。「九条の会」の呼びかけ人や、東日本大震災復興構想会議の特別顧問も引き受けた。
     常に日本の未来を案じていればこそだろう。安保法制を問い、詭弁(きべん)がまかり通る政治に「戦前のようなきな臭さが漂う」と警鐘を鳴らすことも忘れなかった。
     訃報が伝わったのが成人の日だったのも不思議な巡り合わせだ。
     梅原さんが耕した文化の土壌をぜひ、若い人にも受け継いでほしい。もっとも、それは単純な継承ではないだろう。
     「日本の学界は根本的な懐疑の精神に欠けている」と語っていた梅原さんである。自分を含めた既成のものを突き破るような、勇気のある、面白い学問を何より期待しているはずだ。


    ▼東京新聞 社説 2019年1月16日付
    【社説】梅原猛さん死去 「反戦の知」受け継いで
    http://www.tokyo-np.co.jp/article/column/editorial/CK2019011602000176.html?ref=rank

    哲学者の梅原猛さんが私たちにのこした大きなものの一つは「反戦の知」ではなかったか。歴史や文学、宗教などを統合して築いた「梅原日本学」の根底にあったのは、生きることを尊ぶことだ。
     十二日、肺炎のため亡くなった。九十三歳。
     戦時中、動員の工場で空襲に遭うなど強烈な戦争体験を持つ。戦後は西洋哲学を軸に研究生活に入るが「自分自身の生きるよすがにならない」と感じ、人に生きる希望を与える「笑いの哲学」の創造を発意。「ノートを手に演芸場に通う学者」として有名になった。
     法隆寺が聖徳太子の鎮魂を目的に建てられたとする「隠された十字架」など古代三部作で「梅原日本学」とされる学風を確立した。
     従来の学説を根本から否定する刺激的な論考。実証性が問われ、時に「神がかり」とも批判されたが「神がかりになる、すなわちインスピレーションに導かれて書かれないような作品はろくなものではない」と反論。本紙に四半世紀にわたり執筆した随筆「思うままに」の最終回(二〇一七年十二月)でも、独創的な哲学の確立を志す心境をつづった。
     同時代に向けて盛んに発言し、行動した。国際日本文化研究センターの創設や「ものつくり大学」の開学に貢献する一方、長良川河口堰(かこうぜき)の建設や名古屋・藤前干潟の埋め立て、諫早湾の潮受け堤防の閉め切りなど、自然環境に影響を及ぼす事業を厳しく批判。脳死に関しては、人間の死として認めない論陣を張るなど、伝統的な死生観に即した視座を保ち続けた。
     原発についても「思うままに」では一九九〇年代から「危険であるばかりか、その廃棄物は少なくとも今の科学の発展段階では、現在及び未来の人類の生存に対して脅威」と何度も廃止を説いた。
     特筆されるのは二〇〇四年、護憲の立場から「九条の会」設立の呼びかけ人になったこと。人や動物だけではなく、植物や鉱物にも仏性が宿るという思想を尊ぶ立場から、生命を問答無用で奪う戦争には終生を通じて反対した。
     「日本人のほとんど全部が戦争を始めることに賛成しても、最後まで反対する人間の一人が私であることは間違いない」(「思うままに」〇三年四月)
     他国の脅威を口実に「戦争のできる国づくり」が進む今、この知の巨人が身をもって訴え続けた反戦と生命尊重の思想を、次の時代へしっかり受け継ぎたい。


    ▼毎日新聞 社説 2019年
    【社説】梅原猛さん死去 独創し続けた巨人を悼む
    https://mainichi.jp/articles/20190116/ddm/005/070/067000c

     枠にとらわれない独創的な発想で、人間や文化の本質に迫る生涯だった。哲学者の梅原猛さんが93歳で死去した。
     梅原さんの名を広く知らしめた業績の一つが、古代史探求だ。聖徳太子や柿本人麻呂の死の意味を論考した「隠された十字架」や「水底の歌」といった代表的な著書は大きな反響を呼んだ。
     専門家からは批判されたが、疑いから大胆な仮説を試みる独自の手法は、既成概念にしばられた社会に一石を投じた。
     戦争の理不尽を体験したことも根底にあるのだろう。その哲学は、社会や権力者、文明批判にも切り込むことをいとわなかった。
     日本の文化の基礎は、人間と自然が共生した縄文文化であると説き、人間による自然の征服、自然破壊に警鐘を鳴らした。さらに、近代文明は人間中心の傲慢な文明との考えから、東日本大震災後には、福島第1原発事故を「科学技術文明の文明災」だと指弾した。
     60歳を超えて劇作家としての才も発揮し、三代目市川猿之助(現・二代目猿翁)のためのスーパー歌舞伎「ヤマトタケル」や能、狂言も書いた。そこでも描いたのは、戦争への懐疑や自然への畏敬(いけい)の念を忘れた人間の愚かさだった。
     日本文化を学際的に研究する機関として、「国際日本文化研究センター」(日文研)の設立に尽力したのも大きな功績だ。
     当時の中曽根康弘首相に直談判したことから批判もあったが、いまや実証的かつリベラルな学問の中心的存在だ。自由な気風の中で、磯田道史さん、倉本一宏さん、呉座(ござ)勇一さんといった人気の歴史家が研究者に名前を連ねる。
     現所長が妖怪学で知られる小松和彦さんというのもユニークさの表れだ。梅原さんが貫いた姿勢と精神が、息づいているのだろう。
     人工知能(AI)がさまざまな分野で人間を凌駕(りょうが)しようとしている。その中で人間にしかできないことは何か。科学的には説明がつかないが、そこを突き詰めるなかで、学問や人間の深い奥行きが立ち現れる。
     梅原さんが実践してみせた広い視野での「人文知」が生かされる時ではないか。

    ▼梅原猛著作集6『日本の深層』小学館
    https://www.shogakukan.co.jp/books/09677106
        
    〈 書籍の内容 〉
    東北・アイヌ・熊野に日本文化の源流を発見した衝撃の日本古代史紀行集。
    日本人とは何か、日本文化とは何かを考えるには、七、八世紀を中心とした梅原古代学だけでは不十分であり、日本文化の基層である縄文文化の研究が不可欠である。そこで、著者は縄文文化の名残りを色濃くとどめる東北、アイヌ、熊野の文化に注目する。そして一万年以上にわたって縄文文化の中心地であった東北各地や熊野を旅して、それらの地が日本文化の原郷であることを検証する。従来の日本古代史に大きな衝撃を与えた決定版歴史紀行集。現在の縄文文化再評価のきっかけになったこの作品の意義は大きく、梅原日本学の原点ともいうべき作品である。


    ▼『日本の深層 縄文・蝦夷文化を探る』梅原猛 集英社文庫
    http://books.shueisha.co.jp/items/contents.html?isbn=4-08-748178-6
    かつて東北は文化の先進地であり、高度で大規模な縄文文化が栄えていた―。東北各地を旅しながら、日本人の深層に眠る縄文の魂を探り、原日本文化論の新たな出発点をしるす。(解説・赤坂憲雄)





  • また日本の「知の巨人」が1人・・・。


    また日本の「知の巨人」が1人・・・。

    残念なことです。



    ▼NHK NEWS 019年1月14日
    哲学者 梅原猛さん死去 93歳
    https://www3.nhk.or.jp/news/html/20190114/k10011777211000.html

    日本古来の文化や思想を独特の視点で研究した哲学者で、文化勲章を受章した梅原猛さんが、12日、肺炎のため亡くなりました。93歳でした。
    梅原猛さんは大正14年、仙台市に生まれ、京都大学の哲学科を卒業したあと哲学者としての道を歩みました。

    その後、立命館大学や京都市立芸術大学で教授を務めて、日本の歴史や文化、思想を独特の視点で読み解いた多くの著作を発表し、その学問は「梅原日本学」と呼ばれました。

    中でも、法隆寺の建立について独自の解釈をした「隠された十字架」や、万葉の歌人、柿本人麻呂の生涯について検証した「水底の歌」は、通説にとらわれない発想で大胆な仮説を展開し、話題となりました。

    国際日本文化研究センターの設立にも力を尽くし、昭和62年から8年間、所長を務めたほか、平成9年から15年まで日本ペンクラブの会長を務めました。

    こうした功績が認められて平成4年に文化功労者に選ばれ、平成11年には文化勲章を受章しています。

    その後も平成13年に日本古来の“ものづくり”の原点を見直し、高度な技能や技術を身につけることに重点を置こうと埼玉県に設立された「ものつくり大学」の初代総長を務めたほか、平成23年には東日本大震災の発生後に政府が設置した「復興構想会議」に参加し、自然との共存を重視する文明の在り方という視点から提言を行ってきました。

    また、平成16年には作家の大江健三郎さんなどとともに、平和憲法の擁護を訴える「九条の会」の設立の呼びかけ人にもなりました。

    さらに、梅原さんは、狂言や歌舞伎といった古典芸能の世界にも活動の場を広げました。梅原さんの原作をもとに歌舞伎俳優の市川猿之助さん、今の市川猿翁さんが台本や演出を手がけたスーパー歌舞伎「ヤマトタケル」は、斬新でわかりやすい演出と奥深い脚本で大評判となり、歌舞伎の活性化に貢献しました。平成25年には、古典芸能の「能」を現代風にアレンジしたスーパー能の作品「世阿弥」を制作しています。

    親族によりますと、梅原さんは12日午後4時半ごろ、肺炎のため亡くなったということです。
    田原総一朗さん「反戦の意思は受け継がないといけない」
    哲学者の梅原猛さんは、みずからの戦争体験も踏まえ、一貫して戦争に反対する姿勢を貫いてきました。

    10年近く前から親交があるジャーナリストの田原総一朗さん(84)は、梅原さんが亡くなったことについて、「非常にショックで、1つの時代が終わったと言える。梅原さんは、『なぜ日本が戦争を始めたのか、どこが間違っていたのか』を体験的に知っている人だった」と功績をしのんでいました。

    そして、「最後に会ったのはおととしだったが、再び戦争を起こしてはならないということや、権力を疑うという姿勢を貫いていて、人間として尊敬していた。私たちの世代は戦争をあいまいに知っているだけなので、梅原さんの反戦という意思は私たちが受け継がないといけない」と話していました。
    山折哲雄さん「ものに取りつかれたように仕事をしていた」
    哲学者の梅原猛さんが亡くなったことについて、国際日本文化研究センターの元所長で、宗教学者の山折哲雄さん(87)は、「梅原さんとは40年ほど前に知り合ったが、自宅で部屋いっぱいに文献を広げ、ものに取りつかれたように仕事をしていた様子が大変印象に残っている。梅原さんは豪放で遠慮会釈のない批判精神で、内面的なものを考えて表現する世界を激しくも優しいことばで書き続けた珍しい人だ。戦後の日本人の哲学において、思想を捉える力が衰退する中で、梅原さんを失った意味は大きい。まるで平成の終わりという時代の節目を象徴するような亡くなり方だと思う。惜しい人を失った」と話していました。
    梅原さん 「九条の会」の呼びかけ人も
    梅原猛さんは戦時中の自身の体験を踏まえて、戦争の放棄をうたう憲法9条を守ろうと「九条の会」の呼びかけ人にも加わっていました。

    「九条の会」は、梅原さんをはじめ、ノーベル賞作家の大江健三郎さんや作家の澤地久枝さんなど9人が呼びかけ人となって平成16年に発足しました。

    発足した当時は自衛隊のイラク派遣が本格化していた頃で、その後も訴えを続け、「九条の会」によりますと、趣旨に賛同したグループは平成22年の時点で全国でおよそ7500に上るということです。

    一方、9人の呼びかけ人のうち、この10年余りの間に作家の井上ひさしさんや評論家の鶴見俊輔さんなどが亡くなり、梅原さんの死去で7人が亡くなったことになります。

    呼びかけ人の1人で作家の澤地久枝さんは、「梅原さんは表だって『九条の会』の活動に取り組むことはなかったが、戦時中の日本をよく知る方で、会の呼びかけ人に加わることで後押ししてくれたと思う。会の呼びかけ人は、大江健三郎さんと私の2人になりましたが、志は全国各地に広がっていて、梅原さんの思いがこの先も引き継がれていくことを願っています」と話していました。
    瀬戸内寂聴さん「京都は宝を失った」
    梅原猛さんが亡くなったことについて、親交の深い作家で僧侶の瀬戸内寂聴さんは、「梅原さんは私のことをお姉さん、お姉さんと呼ぶように、普通の友達よりも深いおつきあいでした。去年だったか私が病気で入退院を繰り返したときに梅原さんが見舞いに来ると電話をしてきたので、ありがたいけど女なのでみっともないところを見られたくないと断り、お互いゲラゲラと笑いあったのを覚えています」と振り返りました。

    そして「梅原さんは、京都のあらゆる文化的な面を采配していて、哲学者でありながら政治的にも力のある方で、大変尊敬していました。梅原さんが亡くなったことは、私だけでなく、京都が宝を一つ失ったようなものです」と話していました。
    「哲学の道」でも惜しむ声
    数々の哲学者が散歩して思索にふけった京都市左京区の「哲学の道」周辺でも、梅原猛さんが亡くなったことを惜しむ声が聞かれました。

    哲学の道を3日に1度は歩くという近所の80歳の男性は、梅原さんが平和憲法の擁護を訴える「九条の会」の発起人だったことや瀬戸内寂聴さんと親しかったことなどに触れ、「90歳近くになってもあれほど先進的な活動や研究をされた方はいないので、本当に惜しいです」と話していました。

    また、近くに住む66歳の男性は、「京都では有名な人なので、残念です。私はそれほど哲学には詳しくないですが、時代の流れというか、また次からこの分野で新しい人が出てくることを期待したいです」と話していました。






  • 映画をTV番組で補完中(笑)。


    映画をTV番組で補完中(笑)。




    ▼「輝ける日々」 クイーン
    https://www.universal-music.co.jp/queen/products/uiby-15008/

    あの話題作の復習として、2011年5月29・30日に前編・後編にわけて英国BBCにて放送されたドキュメンタリー「クイーン/輝ける日々」をDVD鑑賞。
    それにしてもブライアン・メイが辺野古の埋め立てに反対する署名を呼びかけてくれたことは嬉しい話でした。

    ▼毎日新聞 2019年1月7日
    クイーンのブライアン・メイさんが辺野古署名呼びかけ 「サンゴ礁守って」
    https://mainichi.jp/articles/20190107/k00/00m/030/078000c

     沖縄の美しいサンゴ礁を守って――。英ロックバンド「クイーン」のギタリストで天文学者のブライアン・メイさんが日本時間の7日未明、沖縄県名護市辺野古の埋め立て工事を県民投票が行われるまで中止することを求めるホワイトハウスの請願署名をSNSで呼びかけた。
     メイさんは請願を起こしたハワイ在住の作曲家、ロブ・カジワラさんのツイートを引用し、「緊急! アメリカの基地拡張のために脅かされている美しいサンゴ礁とかけがえのない生態系を守るために、この嘆願書に署名してほしい」とコメント。インスタグラムでも「沖縄のかけがえのないサンゴ礁の破壊を止めるための嘆願書に署名する最後のチャンス」と投稿した。ツイートは7日午後11時現在で約1万4000リツイートされている。
     米大統領への申し立てができる請願サイト「We the people」は、開始から30日以内に10万筆が集まればホワイトハウスが何らかの回答をする仕組みで、現在約19万人が署名している。



    ▼映画『ボヘミアンラプソディ』
    http://www.foxmovies-jp.com/bohemianrhapsody/





  • 年末の「MR.JIMMY」凱旋ライブの第2弾映像出ました♪


    年末の「MR.JIMMY」凱旋ライブの第2弾映像出ました♪



    1977年のセットリストでは最後の「胸いっぱいの愛を」~「ロックンロール」のメドレー部分です。年末の六本木EXシアターでの最高潮のシーンですね。ロックンロール♪



    ▼MR. JIMMY Led Zeppelin Revival Show....Whole Lotta Love-Rock And Roll 1977
    https://www.youtube.com/watch?v=GnE5VQx4sTk



    ▼MR. JIMMY Led Zeppelin Revival Show....The Song Remains The Same 1977
    https://www.youtube.com/watch?v=6hidT9YKXGc&start_radio=1&list=RD6hidT9YKXGc&t=32

    ▼MR. JIMMYご本人による“ライナーノーツ” 2018年12月14日
    https://www.tv-asahi.co.jp/reading/ex-theater/30267/

    EXシアター六本木でMR. JIMMYとともにレッド・ツェッペリンの
    素晴らしい音楽を分かち合うための、ご本人による“ライナーノーツ”

    今回の演目である1977年6月21日のL.A.フォーラム公演は、ブートレッグでは『LISTEN TO THIS EDDIE』というタイトルで多くのコアなツェッぺリンファンが聴いたことのある音源だと思います。
    (1977年ロサンゼルスで行われた全6公演の第一夜です)
    LED ZEPPELINの魅力の真骨頂とも言えるライブパフォーマンスですが、
    そこに至るまでの変遷について知ることで本公演への理解がさらに深まり、新たな魅力として感じていただけるのではと思い、少しご説明したいと思います。

    レッド・ツェッペリンは1968年のバンドデビューから1973年まで、毎年欠かさずツアーを続けていました。当時のミュージックビジネスの成長と共に彼らを取り巻く状況もまた年々、巨大化していき、そしてそれは彼ら自身が創る音楽にも関わっていきました。ツアーを重ねるにつれてデビュー当時の主な会場であったクラブやシアターから、より多くのオーディエンスを収容出来るホールやスタジアムに変わり、それに合わせてバンドの演奏メソッドやステージパフォーマンスの形態も変わっていきました。多くのファンが感じられているように、1973年頃までとそれ以降の彼らのライブパフォーマンスに違いがあるのもそうした理由からと考察できます。

    大成功を収め映画にもなった1973年のツアーを終えた翌年1974年のU.S.ツアーを計画するも、毎年の長いツアー生活に疲れ果てていたジョン・ポール・ジョーンズがバンドに脱退を表明し、それを熟慮した結果、’74年はツアーをせずレコーディングに専念、そして結果的にそれ以降は1975年と1977年の2回のみがアメリカでの公演となってしまいました。

    1975年頃から蔓延していた音楽とドラッグの関係はこの1977年ツアー時は最悪ともいえる事態に陥っており、ステージ上の演奏はジミー・ペイジ、ジョン・ボーナム共にかなりラフさが目立ち、それを客観視したエディ・ヴァン・ヘイレンがペイジについて酷評したことに対しての回答的なライブが音源となって、本演目のタイトルでもある『LISTEN TO THIS EDDIE』(「聴いてみろよ、エディ!」)と名付けられたというわけです。

    実際にこの日をはじめLA公演のテンションは特に高く、オープニングから凄まじいパフォーマンスとなりました。たしかにドラッグの影響で演奏面ではラフな部分もありますが、しかしそんな事は帳消しになるくらいステージ上での彼らのパフォーマンスは存在感に溢れ客席にエナジーを放っていました。そのエナジーこそがこの1977年に特徴的なツェッペリンのライブスタイルです。

    ブルースを基調にじっくりと聴かせた初期のツェッペリンと、音楽市場の巨大化に則してオーディエンスに”見せる”ことを意識したエンターテインメントの世界を表現したツェッペリンとの大きな違いを感じていただけると思います。どちらも偉大なLED ZEPPELINなのです。当時の8ミリなどで撮られたブートレッグ映像でも、ステージアクションの大きさや圧倒的なカッコ良さでバンドがどれだけハイだったかを窺い観ることができます。同年7月24日まで繰り広げられたツアーの選曲も大筋同じ内容でしたが何曲か違いもあり、6月21日についても若干の差し替えがみられます。

    今回、MR. JIMMYはこの1977年6月21日のハイテンションな演奏とセットリストを基本に演奏メソッドはあくまでも1977年当時の彼らのテクニックとエモーションを用いて、この大作ライブのリバイバルに挑みます。

    機材も当時のセットに可能な限り近くセットアップします。ジョン・ポール・ジョーンズはこの年よりメインのベースをフェンダーのジャズベースからアレンビックに持ち替え、アンプもそれまでのトレードマークだったアコースティックからハイフリーケンシーなアンプに替えて、バンドのアンサンブルをそれまでよりブライトなものに変えました。ジョン・ボーナムのドラムセットはビスタライト・キットからステンレス・スティール製の大音量タイプに。

    これら使用楽器の変遷も彼らの音楽的なアレンジや全体のアンサンブルをも変化させることに繋がりました。MR. JIMMYが日頃より同じ楽器を使うことが正しい演奏メソッドを教えてくれるというポリシーを貫くのもその事実をリスペクトしてこそです。正しい楽器を用いて正確な演奏メソッドを習得することがその音楽が持っていたエナジーを“蘇生”させるリバイバル・バンドの最初の一歩です。

    ただ同じ音符をなぞってコピーするのではなく、何が本物なのか、音楽とは何か、パッション、エナジーとは…音符にならないその世界観を、いまここに生きる生身のミュージシャンの演奏によってパラレルワールドのごとく限りなく近い可能性を表現すること。それは決して勝手な自己解釈に基づくのではなく、MR. JIMMYメンバ−の絶え間ない検証と試行によって出来ることであり、今回アメリカからフランキー・バナリ、オーガスト・ヤングというツェッペリン愛に溢れた素晴らしいミュージシャンと日本で二十年以上僕と一緒にレッド・ツェッペリンを追求してきたジョンジー大塚とともに皆さんに披露する機会をいただいたことは、僕の音楽人生においてとても大きな事です。

    そして、この1977年という機材やセットの再現においてツェッペリン史上でも特に難しい年代をリバイバルするため、音楽と同じ熱意を持ってステージセットの再現に取り組んでくれた会場は、世界広しといえどもここEXシアター六本木だけであるということを、ぜひ皆さんに知っていただきたいのです。

    これは、僕がアメリカで活動して感じた紛れもない現実です。ここまで細部に亘るこだわりを持って、レッド・ツェッペリンの持っていた魅力を蘇生することに迫ろうとする熱意と技術は、おそらくアメリカだけでなく世界中どこを探しても現在無いと確信しています。当日来て下さった皆さんには、このステージがレッド・ツェッペリンという素晴らしい音楽が生んだ奇跡的なコラボレーションの集大成なのだとご理解いただいてライブショーを楽しんでいただけると嬉しいです。

    そして皆さんにお願いです。このようなバンドのスキルとアティチュード、ステージセットがあっても、会場のお客様の反応と歓声がなければライブショーは完成しません。

    当時のツェッペリンがそうだったように、会場の皆さんからのエナジーがライブのマジックを生むのです。どうかひととき、日常の比較的穏やかな日本人の慣習を忘れて、1977年のツェッペリンと同じく思いきりハイテンションに、感じるがままに声援をお送りいただけると、まさに今夜皆さんがいるEXシアター六本木が一つになって 1977年当時そのものの興奮をリバイバルできると信じております。

    ―― JIMMYが確信する、「レッド・ツェッペリンの音楽にはリバイバルする価値がある」ということを皆さんと分かち合えたら限りない幸せです。

    2018年12月Jimmy SAKURAI


    ▼EX THEATER ROPPONGI PRESENTS
    LED ZEPPELIN結成50周年特別企画公演 
    MR. JIMMY『ロックショー・リバイバル』
    Listen To This Eddie1977 The last US tour of LED ZEPPELIN
    http://www.mandicompany.co.jp/MrJimmy.html

    レッド・ツェッペリン 結成50周年記念公演
    「プレゼンス」発売後に行われた最後のUSツアーの全貌がいま蘇る!

    記念すべきレッド・ツェッペリン結成50周年の今年、現在ジェイソン・ボーナム[JBLZE]メンバーとして
    ツアー中のジミー桜井が自身のリーダーシップ・バンド [MR. JIMMY]を率いて凱旋公演。
    “レッド・ツェッペリン・リバイバル”をコンセプトに、1977年アルバム『プレゼンス』発売の翌年に行われた
    ツェッペリン最後のUSツアーの名演[Listen To This Eddie]が、EXシアター六本木で眼前に甦る。

    ■メンバー:ジミー桜井(G)/フランキー・バナリ(Dr)/オーガスト・ヤング(Vo)/ジョンジー大塚(B&K

    ●2018年12月21日(金)
    ●EX THEATER ROPPONGI
    http://www.ex-theater.com/
    ●開場18:00  開演19:00
    ●全席指定¥7.800(税込) ※入場時ドリンク代別途必要

    ▼MR.JIMMYオフィシャルサイト http://mrjimmy.jp
    https://www.mrjimmyledzeppelinrevival.com/

    ▼『世界で一番ジミー・ペイジになろうとした男』
    ジミー桜井(著)/田坂 圭(著)/リットーミュージック
    https://www.rittor-music.co.jp/product/detail/3117313009/

    ▼Jimmy SAKURAI YouTubeチャンネル
    https://www.youtube.com/user/mrjimmyjp2012





  • 年頭からマンガ三昧で息抜き中♪


    年頭からマンガ三昧で息抜き中♪

    書店に寄ったら“青春の巨匠”吉田聡の新刊本が目に入りました。
    大学生時代に『湘南爆走族』(1982年)で笑い転げていた世代だけに彼の作品は外せません。
    まるで、かつての『湘南グラフィティ』(1988年)の面々が時を経て悲喜こもごもな中年になって蘇ったかのような印象を受けた『そのたくさんが愛のなか。』(2017年)も5巻で完結だそうです。これも主人公はバイク(SR400)で登場するし、“湘爆”の権田二毛作(地獄の軍団)も登場するのでバイク漫画の片隅に位置付けても良いと思います。56歳のオヤジになったかつての若者たちの再会をテーマにした一服の清涼剤のような作品です。

    一方、“湘爆”直系(?)の『荒くれKNIGHT』も新シリーズ「リメンバー・トゥモロ―」ってのの連載が始まっていたみたいです(笑)。第1巻の単行本を書店で発見するまでまったく知りませんでした(苦笑)。

    僕のように60歳を目前にしながらも“青春時代の尻尾”を引き摺りながら、相変わらずバカなことを夢想しては遊んでいるのは愚か者と世間様からは笑われますが、だからといって「変わっちゃいないぜ俺達!」と示すことで他人様から罰を受けるほどまでの筋合いもありません。「バイク乗り」なんて人種は昔っから大なり小なり「まったく、いい歳こいて・・・」と冷たい視線を浴びてきたものなのでしょう(笑)。
    そんな事情も中年リターン組や高齢ライダー層の増加で、日本のバイク文化の成熟や進展が勝ち取れるなら少しは僕らを取りまく環境にも変化があるのかもしれませんよね。

    吉田聡さんという作家は日本アニメ界の巨人・宮崎駿さんの評価も高いようです。吉田聡傑作短編集『バードマン★ラリー 鳥人伝説』(1990年)に宮崎駿監督が後書きで「吉田聡はドン・キホーテである」という一文を寄せています。
    高村光太郎のあまりに有名な『道程』の一節「僕の前に道はない。僕の後ろに道はできる」を引き合いに出しながら吉田聡作品を解説していました。

    「マニュアルだらけの時代である。ビジネスマンになるにも、つっぱりになるにも、マンガ家や将棋指しになるにも、マニュアルが用意されている。針路を決めたとたん、手引書に従ってコース通りに務めなければならない。それがいやさに、針路を決めずに時間をかせぐと、結局どの辺に収まるかというマニュアルも出地ちまってる。ぼくの前に道はない。自分は荒野へ歩み出すのだと、一寸前の詩人は戦慄と気合いをこめて語った。自分達凡俗も、その言葉にそれなりの意気を感じた時代に比べて、今はなんと生きにくいのだろう。(中略)立ち止まれば後ろから押され、こずかれ、ズルズル進んでしまう。損のないよう決められた道を進むしかない、そう感じている若者がなんと多いのだろう。」の書き出しで始まるのですが、多様化が建前として叫ばれる一方で、妙な同調圧力や画一化が進行している最近の息苦しささえ感じる世相を約20年も前に言い当てている気がします。
    そんな中で「吉田聡の作品は、その世相に対する一貫した異議申し立てである。『湘南爆走族』はその傑作であるが」と、モラトリアムな学園生活での物語という限界に触れながらも「『湘爆』以降の彼の仕事を見ると、作者自身がその後の江口達について考えつづけているのが判る。(中略)膝を折ってしまった、あるいは折れかかった少年が、いかに自分の脚で立つかを、彼は熱をこめて語ることで答えようとしている。」と評価していました。
    そして結びでは「自分の脚で立とう。習った言葉ではなく、自分の心を表す自分の言葉を探そう。そうすれば、大渋滞の舗装道路の中にあっても、荒野を前に立つ戦慄と熱き想いがあるのだと、吉田聡は絶叫しているのだ。ドン・キホーテである。ぼくはドン・キホーテが好きだ。」としています。
    スーツ姿での満員の通勤電車に揺られながらの日々でも「荒野」は見いだせるし、踏み出せるし、地図もレールも燃やすことは可能だということでしょう。

    ちなみに高村光太郎の9行詩の「道程」には、「どこかに通じている大道を僕は歩いているのじゃない」で始まる102行の初出の長詩も存在します。
    これはこれでまた趣き深いものがあります。





    ▼「そのたくさんが愛のなか。5」吉田聡 小学館
    https://www.shogakukan.co.jp/books/09860158
    ▼「荒くれKNIGHT リメンバー・トゥモロー 1」吉田聡 秋田書店
    https://www.akitashoten.co.jp/comics/4253141862





  • 浜松から届いた年賀状の中に・・・


    浜松から届いた年賀状の中に・・・



    「KEYWEST MUST GO ON」とタイトルされた「QUEEN」バリバリの年賀状がありました♪
    浜松が誇る9人のデザイナー集団「キーウエスト・クリエイティブ」さんからの粋なデザインの1枚でした。
    同社は《遠州の熱中人》を意味する造語である雑誌『エンシュージアスト』の発行元ですから皆さんもご存知ですよね。
    音楽とバイクを愛する小粋な集団の会社です。

    そんな熱い年賀状を大沼テキサス編集長から頂いたのが影響したのか、やっと重い腰をあげて映画館で『ボヘミアンラブディ』を先日観てきました(笑)。
    感想?ちょい微妙?(笑)わかるんだけどね。きっと僕は初期の「クイーン」が好きだったんだろうな。

    以来、部屋ではクイーン初のライブ盤となった『ライヴ・キラーズ』(1979年)を流しています。確か探せば学生時代に買ったLPも何処かに捨てずにあった気がします(笑)。

    ▼雑誌『THE ENSHUSIAST MAGAZINE』(エンシュージアスト)
    https://www.facebook.com/Enshusiast/
    http://enshusiast.com/
    ▼キーウエストクリエイティブ
    http://www.key-w.com/index.html

    ▼映画『ボヘミアンラプソディ』
    http://www.foxmovies-jp.com/bohemianrhapsody/





  • 新春なのでデスクトップ上だけでもバイク乗りらしくお飾り中?(笑)


    新春なのでデスクトップ上だけでもバイク乗りらしくお飾り中?(笑)



    勝手に新年の「馬揃え」?
    棚の上はさながら中古バイク屋状態か?(笑)

    細部のディティールに灘はあるのでディスプレイというより「文鎮」や「ペーパーウエイト」くらいにしかならないとは思っていましたが、それでもそこそこの数が集まれば、書斎のパソコン机の上の棚もなんとなくは単車乗りらしい世界かも?(笑)

    大手チェーンの某RBでDAEGを購入した際に景品でミニレプリカの“世界の名車シリーズ”「Z1ーR」を貰い、「バイクを買うとこんなの貰えるんだ」と初めて知り、女房を紹介した時に紹介社サービスで在庫を探してもらい「GPz900R」を頂き、女房がVTRを購入した時に「ゼファー1100」をゲットして、その流れでネットでポチッポチッとやって「KATANA」やら「V-max」やら「SR400」「ローレプ」やら「Z1300」「Z1000マーク2」「ドゥカティ900SS」「650W1」と次々に憧れのバイクを密かに集めて喜んでいたら年末の書斎の大掃除の時に女房にバレて、今更隠しておくのも無意味になり今年から目の前に並べて独り悦に入っております(笑)。
    男の子って子供っぽいせいか、こ~ゆう玩具っぽいのって集め出すと“ガチャガチャ”や「食玩」やプラモと同じで癖になるよね(笑)。

    それにしても900Ninjaを除けば実際には乗ったこともない車種ばかりだけれど、それぞれの時代を駆け抜けた憧れの名車たちだよなぁ~。
    僕には一生、乗る機会にも恵まれないとは思うけど、憧れのマシン群であることに変わりはありません。

    今年は元号も変わり、「昭和」がますます気分的に遠くなりますよね。
    昨今は「ネオレトロブーム」だそうで、カフェレーサーっぽいスタイルがまた流行っているようですが、愛機のDAEGなんてエンジンこそは水が流れていますが、基本骨格はフレームにしても2本サスにしても今となってはレトロな印象です。
    学生時代の最初のバイクが惚れ抜いたデザインのZ400FXだったので、どうもそこから好みが抜け出せないんだろうなぁ~(笑)。
    無事是名馬也。いつか路上で。

    「単車倶楽部」の発行元の「造形社」って名称を昔どこかで見かけたような気がしていたら、棚の上に『小劇場運動全史~記録・発見の会』(瓜生良介著/造形社/1983年)って演劇論本がありました。当時、この杉並区和泉にあった「造形社」さんと、今の“たんくら”の「造形社」さんとは名前は同じでもまったく別物なんでしょうが、たまたま名前が同じという発見を最近しました(笑)。





  • 単車の新年初火入れはラーメン屋へ


    新年初火入れはラーメン屋さんへ♪















    年末年始休みで内輪では「秘義プータロー」と呼ぶコタツ猫のような怠惰な生活が続いておりましたダメ人間です。
    外に出てバイクのシートカバーを外すという初動さえ出来れば、後はなんとか気力も立ち上がるものなんですけどね。学生時代もバイトで泥のように疲れていても、すったもんだしてやっとエンジンがかかったアイドリング中のZ400FXの上でタンクに突っ伏していればバイクから充電してなんとかなってた気がするしね。

    新年の初散歩は片道30キロの近場での身体慣らしで、港北ニュータウンの「ウミガメ食堂」さんにお昼ご飯訪問でした。
    この日が新年の初営業日ってこともあるのか、とにかく“お待ち”の行列が出来ていました。このお店って2016年の1月31日放映の『モヤモヤさまぁ~ず2』でも紹介されたから案外と有名なのかもね。

    でも、元々は1918年創業の横浜の「奇珍楼」がルーツのお店ですから歴史はあります。スープも淡麗で優しい味な気がします。
    バカ夫婦はお揃いで「ウミガメ食堂Tシャツ」を着ていったら四代目の店主さんが気がついてくれたようで笑顔で焼売をちょっとオマケしてくれました。セコい作戦大成功♪
    女房は“横浜市民のソウルフード”とまで言われる「サンマ―麺」、僕は「サンマ―ワンタン麺」を注文。ワンタンの具は大きくて、肉の甘みがGOOD。
    三代目さんは現役のバイク乗りで、1968年製のホンダ車を今も大事に走らせています。

    昭和な世代の方であれば、藤子不二雄さんの漫画によく登場するいつもラーメンを食べている「小池さん」って中年男のキャラクターに憶えがあると思います。そう、天然パーマ頭で眼鏡かけていて、いつも不機嫌そうな顔でラーメンをすするあの男です。
    彼とどうも雰囲気が似ているのか、初対面の方から「えっ!?小池さんの“小池”って本名だったんですか?てっきり『オバケのQ太郎』や『パーマン』とかに出てくるラーメン好きの小池さんのキャラと似ているのでニックネームだとばかり思っていました」と驚いたように名刺の名前と僕の顔を見比べながらよく言われることがあります(笑)。
    まぁ、ラーメンというか中華ソバは好物なので仕方がないとは思いますが(笑)。今年は還暦夫婦になるので、スロースタートながらちんたらちんたらマイペースで走ります。

    ▼ウミガメ食堂
    横浜市都筑区茅ヶ崎中央24-12ライオンズプラザ1F

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    ≪バイクリターン後の読者投稿or雑誌登場例≫

    【2017年度】
    ★『道楽』No.16(2017年2月16日発売号)P100 「みちコラム」寄稿
    ★『カワサキバイクマガジン』vol.127(2017年9月号) P113投稿再掲
    ★『R★B』(レッドバロンマガジン)vol.24(2017年秋号)P22
    「走れ!プロフェッショナル」特写記事掲載

    【2018年度】
    ★2018年の年賀状が『オートバイ』『カワサキバイクマガジン』『ロードライダー』『Bike JIN』(培倶人) 『ヤングマシン』『ミスターバイクBG』『バイカーズステーション』『OutRider』8誌の3~4月号の読者ページに掲載
    ★『単車倶楽部』Vol.4(2018年5月号 月刊化第1号  P94~P97寄稿掲載
    ★『道楽』No.23(2018年4月16日発売最終号)特集『道楽キャンプ 愛すべき残党達よ!』P23下段にトピック登場
    ★『単車倶楽部』2018年6月号 キャンプツーリング特集P25寄稿掲載
    ★『単車倶楽部』2018年7月号 読者投稿みんなの伊豆VOICE P25
    ★『MCクラシック』誌 Vol.05(2018年6月号)P139~140 読者の声TALKS投稿掲載
    ★『ガールズバイカー』2018年8月号 P26 最下段にVTR女房チョコさん登場
    ★隔月誌『昭和40年男』S40ニュース採用 2018年7月14日付
    タメ年が作った「コンテナハウス」に憧れる!
    https://www.s40otoko.com/archives/49403
    ★『単車倶楽部』2018年9月号 みんなのライダースVOICE 投稿掲載P33下段
    ★『単車倶楽部』2018年10月号 みんなのライダースVOICE 投稿掲載P63上段
    ★『エンシュージアスト』創刊第2号 2018年8月25日発行 寄稿掲載 P54下段

    【2019年度】
    ★『単車倶楽部』2019年1月号 みんなのライダースVOICE 投稿掲載 P29上段
    ★『単車倶楽部』2019年1月号 みんなのライダースVOICE特別版 投稿掲載 P39中段